に身を組みて夜の景色となりにけるかな
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同じ中禅寺湖畔の夜色迫る光景。山と湖水と又山と巴に身を組んで夜となるとは恐ろしい程の表現で、それによつて光景は直ちに読者の脳裏に再現される。詩人は魔法使ひでもある。
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拝むもの拝まるゝもの二つなき唯一体の御仏の堂
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晶子さんといふ人は矜恃の高い人であつたから、人の感情を真似たり、共通の思想を我が物顔に取り入れたりはしなかつた。然るに此の歌を見るに浄土教信仰の極致が示されてゐる外何もない。一首の道歌とも見れば見られ、蓋し晶子歌中の珍物である。まさか晶子ともあらうものが真宗坊さんの御説教を聞く筈もなしその教理を取り入れる筈もない。然らばそんな既成観念とは関係なく晶子さんの頭に直接にひらめいた実感と見るべきである。然らば実に驚くべき直覚力と云はなければならない。私などは観念的には学んで知つてゐるが、浄土教信仰に於てそんなことが容易に実現されようとは信じない。然るにそれを老婆か誰かの拝仏の姿を見て之を直覚し得たのだから驚かされる。
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物思ひすと云ふほどの唯事の唯ならぬ[#「唯ならぬ」は底本では「唯よらぬ」]世も我ありしかな
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誰でも若い内は物思ひ位はするだらう、そんなことは何でもない唯事に過ぎない。しかし私の場合にはその唯事が唯事でなくなる様な非常事態もよく起つたものだと今はすつかり学者になりすましたありし日の情熱詩人が静かに往時を囘顧するものであらう。
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後の世を無しとする身もこの世にてまたあり得ざる幻を描く
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既成宗教を信じない作者は来世を信ずることはない。それなのにこの世であり得ざる幻を描いて喜んだり悲しんだりしてゐる。それは凡愚の迷信にも劣る愚かしさであるがどうにもならない。
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死ぬ日にも四五日前の夢とのみ懐しき儘思ふあらまし
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この堪らない懐しさ私は忘れないであらう、例へば死ぬ時が来ても四五日前に見た夢のやうに思ひ浮べることであらう。旅の歌が作の全部となつた頃僅に見出される純抒情詩で縹渺たる趣きはあるが中味の捕へようのないものが多い。
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山桜夢の隣りに建てられし真白き家の心地こそすれ
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作者は自ら白桜院の院号を選んだだけに桜を賞すること常人に過ぎ、その癖染井吉野を木のお化けだとけなしつつも、沢山の歌をよんでゐる。その第一は 天地の恋はみ歌に象どられ全かるべく桜花咲く といふので桜花の気持がよく出てゐる。次に 朝の雲いざよふ下に敷島の天子の花の山桜咲く といふのがあるが、之は盛な様子を十分に歌つたものだが余音に乏しい憾みがある。その第三がこの歌で、この歌では一歩深く入つてその夢の様な美しさの象徴されてゐて申し分がない。
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尽く昨日となれば百歳の人も己れも異ならぬかな
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百歳の御婆さんとまだまだ若い私との違ひは現在のあり方であつた。私はもう若くないに違ひなかつたが、まだまだ色々のものが残つてゐて全部が全部過ぎ去つた訳ではなかつた。それがどうであらう。全部を全部忘却の過去へ送つてしまつた今となつては百歳のお婆さんと何の違ひがあらう。現在零である点に於て全く同じことになつてしまつた。 悲しみも羊の肝の羹も昨日となれば異ならぬかな[#「かな」は底本では「からな」](草の夢)
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ただ一人柱に倚れば我家も御堂の如し春の黄昏
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これは歌集大正七年出版の「火の鳥」にある作である。この「火の鳥」は晶子歌に一時期を画するもので、即ちこれ以後の歌は作者のいふおだやかな人間になつて作つたもので、それ迄のものとは厳然と区別される。激動期は既に去つた。柱に倚つて一人静観しうる春の夕となつた。我が家さへ神聖な御堂の様に思はれるのであつた。
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身の弱く心も弱し何しかも都の内を離れ来にけん
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昭和二年荻窪の家に移られた当時の歌で余程心細かつたものらしい。遠い昔の女性さへ偲ばれる哀調を帯びて珍しく弱音を吐かれたものであつた。なほ同じ時の歌に 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな といふのもある。
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うつむけば暗紅色の牡丹咲く胸覗くやと思ふみづから
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唯一寸うつむいただけでこれだけの想像が浮ぶのである。常に動いてやまない豊富な詩人の思想感情が窺はれる。さうして若い時から中年期、成熟期から晩年とその想像力の描き出す形は少し宛違つて来てはゐるが最後迄涸渇することを知らなかつた。
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衰へてだに悲しけれ死ぬことを容易《たやす》きものに何思ひけん
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作者は一面激しい感情の持主であつたから折にふれて幾度か死を決したこともあつたらう。それを初老といはれる五十近くになつて顧みたものであらう。然るにさういふ口の下から、相当の事情があつたにせよその後幾年もなくまた死を決せられたやうで、その時はこんな歌を詠んで居る。 わが在りし一日片時子の為めに宜しかりしを疑はぬのみ 又 汝《な》が母は生きて持ちつる心ほど暗き所にありと思ふな しかし結局思ひ過ぎであつた。しかしそれを最後としてあとは一二囘の波瀾はあつたが比較的静かな境遇に入られたやうである。
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自らは半人半馬降るものは珊瑚の雨と碧瑠璃の雨
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フアウスト第二部に人首馬身のヒロンがあるが、この半人半馬は女性で詩歌芸術の世界、その世界には紅い珊瑚の雨と碧い瑠璃の雨とが入り混つて降つてゐる、その中を縦横無尽に駈け廻るのである。こんなロマンチツクな色彩濃厚な幻想でありながら少しも若い頃のやうなけばけばしさがなく、ゆつたり落付いてゐるのはやはり作者の心の落付きを反映してゐるのであらう。
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日昇れど何の響きもなき如し夏の終りの向日葵の花
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人の漸く老いて好刺戟あれども何の反応も示さなくなつた様子を象徴するものであらう。これも五十頃の作で体験に本づくこと勿論である。
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君が鳥わが知らぬ鳥二つ居て囀りし夢また見ずもがな
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私の嫉妬はずゐ分激しかつたがこの頃はもう争ひの種もなくなり、至極平静な生活を続けてゐる。君の鳥が他の女の鳥と囀り交す様な夢でさへもう見たくはない。
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知り易き神の心よ恋てふもそれより深きものと思はず
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神は愛なり、この位よく分ることは私にはない。なぜなら私の心は愛で一杯になつてゐて、何ものをも愛し得るからである。恋の如きもこの愛より深いものとは私は思はない。こんなことの云へるのも一面年老いて最早当時の情熱など思ひ出せないからでもあらう。
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ありと聞く五つの戒の一つのみ破りし人も物の歎かる
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この場合破つた一つの戒と認めらるるのは不飲酒戒で、破らないも同じことである。さういふ真面目な正しい落度のない人も物を歎くとは如何したことであらう。仏の教へも頼るに足りない。
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足る如く春吹く芽をば見歩きぬ高井戸村の植米と我
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植米はもし生きてゐたら八十位の御爺さんではなからうか。釆花荘の植木は全部この御爺さんの指図で麦畑の中へ植ゑられたのである。私の今居る家のも亦殆どさうである。実にいい爺さんであつた。その好々爺と連れ立つて偶※[#二の字点、1−2−22]東京から普請を監督に来た夫人が植ゑられた許りのそこらの庭木を見て歩く風貌が目に見えるやうである。恋などとは何の関係もない心の満足である。
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天人の一瞬の間なるべし忘れはててん年頃のこと
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思へばこれ十余年せまじき恋をした許りに私の嘗めた辛酸労苦思ひ出すさへ堪へられぬ、きれいさつぱり[#「さつぱり」は底本では「さぱつり」]と皆忘れてしまひたい。何忘られないことがあらうか、十余年などは命の長い天人から見れば一瞬間のことに過ぎない。而して今から新らしい瞬間を作りませう。
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あな冷た唐木の机岩に似ぬ人の涙の雫かかれば
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「似ぬ」はこの作者が好んで用ひる語尾の変化で、私なら決して用ひないものだ。私なら「似る」といふであらう。何故なら似ぬといふと似ないといふ意味が紛れこむ虞れがあるからである。作者はしかしさういふ感じがしないと見え至る所にこの変化を用ひてゐる。今まで倚つてゐた黒木の机に涙がかかつたので急に冷えて岩ででもある様に感じられるといふのであらうか。或は相対する人の涙がかかつてさう感ぜられるといふのであらうか。
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わが街へ高き空より雪降りぬ寂し心の一筋の街
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之は象徴詩である。何とでも読者が勝手に映像を作るが宜しい。「高い空」といふ一つの観念を思ひ浮べ、夏に「寂しい一筋の街」を思ひ浮べる。その二つを雪でつなぐのである。さうするとそこにぼんやりした映像が浮んで来る。それは何を象徴するものであらうか。
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侮られ少し心の躍りきぬ嬉し薬に似ぬものながら
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若さが退くと共に心の平静が得られるやうになつたが、同時に心躍りもしなくなつてそれは我ながら寂しいことであつた。それに如何であらう。私を侮るものが出て来た。私は人の侮りを受けた体験が今度初めてで少し心が躍つて来て嬉しい。薬と侮りとは凡そ似てゐないがその作用は相類してゐないでもない。
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夏の夜の鈍色の雲押し上げて白き孔雀の月昇りきぬ
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夏の夜の月の出の印象で、まことにはつきりしてゐる。象徴でも写生でもない、唯印象を伝へんとするもので、この作者以外には余り例が多くない風だ。拙くやると比喩になつてしまつて著しく価値が低下する。この風は先づ余りやらぬ方が賢い。
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かぐや姫二尺の桜散らん日は竹の中より現はれて来よ
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二尺の桜といふから鉢植の盆栽の桜か何かであらう。その可哀らしさ美しさは如何見ても昔話のかぐや姫の化身としか思はれない。そこでこの歌になるので、この桜が散つたらす早く竹の中に忍び入つて、今度は人間のかぐや娘として出て御いでなさいといふのであらう。不思議な空想である。
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そのかみの日の睦言を塗りこめし壁の如くに倚りて歎かる
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この壁を見るとその中には君と私との中に交はされたありし日の睦言が一杯塗りこめられてゐる様に思はれる。この壁に倚つて凡てが話されたからである。何といふ懐しい壁だらうと思つて倚りかかつて私は泣くのである。
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家にあり病院にある子と母の隔たる路に今日は雨降る
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作者は十一人の子女を育てられたが最も可愛がられたのは長男の光さんと末娘の藤子さんとで、特に藤子さんは一人で十人分位の慈愛に浴したやうだ。その藤子さんがまだ小さくて病気をし、近所の小児科病院に入院させた時の歌である。母子の情洵に濃やかで雨のやうに降りそそぐ感じがする。なほこの時の歌二首を上げる。 絵本ども病める枕を囲むとも母を見ぬ日は寂しからまし 人形は目開《あ》きてあれど病める子はたゆげに眠る白き病室
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仄かにも煙我より昇るとて君もの云ひに来給ひしかな
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恋を卒業した作者が今度は心を溌まして、恋の明るい一面を美しく歌
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