の意味であらう。海棠は花の咲く前に掘り起して鉢に植ゑればやがて葉が出て花が咲く。一日小雨のそぼふるのをよい事に露地の苗を掘り上げ鉢に移し植ゑてやつた、之も町娘の知らなかつた里住みのをかしさであるといふのであらうか。この歌は第四集「恋衣」の歌だ。調子が調つてゐて隙のないのも蓋しその所である。
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わが上に残れる月日一瞬によし替へんとも君生きて来よ
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中年以後晶子さんには心臓の弱い自覚病状があり、折※[#二の字点、1−2−22]病床にも伏したに反し、良人寛先生は全くの健康体を享楽することが出来た。そこで晶子さんは良人にみとられながら先に死んでゆく運命にあるものと信じてゐた。然るに事実は之に反し 我死なず事は一切顛倒す悲しむべしと歎きしは亡し といふことになつてしまつた。元来寛先生は作者にとつては尋常の配偶者以上の意味を持つ存在で、晶子さんをしてよくその天分を発揮させ大を為さしめたものは実に寛先生であり、歌の場合特に晩年は唯一人の読者ですらあつた。であるから側に先生の居ないことがどれ程寂しいことであつたか想像される。さうして多数の歌がこの心情を記録してゐるがこれがその最後のもので、悲痛を極めて居る。
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やや広く廂出したる母屋造《もやづくり》木の香にまじる橘の花
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「母屋造」は普通の入母屋造の略ではなく、王朝の寝殿造のことで栄花か源氏の光景を詠じたものと思はれるが、蜜柑の花の咲く暖地に出来た新建築と見ても構はない、木の香と橘の匂ひと交錯する趣きを味へばそれでも宜しからう。橘を思ふと私は直ぐ 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする といふ歌を思ひ出す。作者の潜在意識にも或はこの歌があつたかも知れない。
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明るくて紀《とし》子は楽し薔薇を摘み茅花抜く日も我れみとる日も
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どんな静かな、またどんなじめじめした席であらうと紀子さんが一枚加はれば、朝日の射し込んだやうに急に明るくなる。生れついてさういふ賑やかさを紀子さんは持つてゐる。その人を歌つたこの歌の何とまた明るくて楽しいことよ。病人がこの人の看護でどれ程楽しい思ひをしたか、歌がその儘を示してゐる。茅花抜くといふのは紀子さんが「茅花抄」といふ歌集を出したのに因る。
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海恋し潮《しほ》の遠鳴り数へては少女となりし父母の家
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この歌などは既に文学史上クラシツクに入るべきもので、今更鑑賞もをかしい位のものだが、いへば堺の生家を思ひ出した歌で海は静かな大伴の高師の海である。
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自らは不死の薬の壼抱く身と思ひつつ死なんとすらん
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発病の翌年の春意識の漸く囘復して歌を作りうるまでになつた時のもので、芸は長く命は短しの句を現実に自己の上に体験する作である。作者は自己の天分を深く信じその作が不朽のものであることを疑はないのに、それにも拘らず現に今死なうとしてゐる。而してそれを如何することも出来ないといふ心であらう。同じ頃の歌に 病む人ははかなかりけり縺れたる文字の外にはこし方もなし 木の間なる染井吉野の白ほどのはかなき命抱く春かな といふ様なのがある。之等はしかし、悲痛といふより反つてもの静かなあきらめの調子を帯びてゐて同調し易い。
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つゆ晴の海のやうなる玉川や酒屋の旗や黍《もろこし》の風
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之は決して写生の歌ではない。作者の白日夢でありシンフオニイである。歌を解剖したり色々詮議立をしたりなどしてはいけない。ドビツシイを味ふやうにその儘味へば滋味尽くる所を知らないであらう。繰り返し繰り返し唯口に任せて朗誦すればそれでよいのである。
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船下り船上りくる橋立の久世の切戸に慰まぬかな
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之は昭和十五年の春作者の試みた最後の旅行で、御弟子さん数名と橋立に泊つて作つた歌の一つだ。橋立は與謝野の姓の本づく所で特に因縁が深く、そこの山上には歌碑も建つてゐる。美しい水の上を遊船がしきりに上下する久世の切戸を見てゐれば厭きることもない。それだのに私は慰まない。あるべき人がゐないからである。それが因縁の深い橋立だけにあはれも深い。
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髪に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]せばかくやくと射る夏の日や王者の花の黄金向日葵《こがねひぐるま》
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雑誌「明星」の基調の一つは積極性であつた。さびやしをりの排撃であつた。花なら夏の向日葵が之を代表する。寛先生に有名な向日葵の詩があり、作者にこの歌がある。実際渋谷の家も千駄谷の家も表は向日葵で輝いてゐた、蒲原有明先生の如きもこの花を当時の新詩社の象徴だつたとして囘顧し居られる。
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たかだかと太鼓鳴り出づ鞍馬山八島にことの初まりぬらん
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同じ時鞍馬山に遊んだ作の一つ。貫主僧正が御弟子さんなので屡※[#二の字点、1−2−22]遊ばれ、この折は金剛寿命院の新築が成功した際とて沢山歌を読まれてゐる。急に太鼓が鳴り出したのでおや八島で戦ひが初まつたらしいといふ牛若の生長した義經を使つたノンセンスを言ひ構へ、それに依つて当の鞍馬の情景を彷彿せしめた歌だ。こんな手法は相当の達人でなければやれない事だが又やつてはならない事でもある。
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八月や水蘆いたく丈伸びてわれ喚びかねつ馬洗ふ人
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蘆が伸びて視界を隠した為、呼んでも声が届かない様な錯覚に陥る、そこに興味の中心が置かれてゐるやうであるが、その田舎びた環境と共に珍しい面白い歌である。
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花見れば大宮の辺の恋しきと源氏に書ける須磨桜咲く
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誰にでもよいから試みに須磨にて桜の咲くのを見て詠めるといふ前書の歌を作らせたらどうであらう。これ以上の歌が出来ようか。私は出来まいと思ふ。啄木でも吉井勇君でも出来まい。いはんや他の諸君など思ひもよらない。須磨桜などいふ造語の旨さはたまらない。
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今日充ちて今日足らひては今日死なん明日よ昨日よ我の知らぬ名
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これこそ晶子さんの一生を通じて生活の基調となつてゐた哲学であり宗教であつて、六十五年の偉大な生涯は唯その実行に外ならなかつた、しかし浅薄な刹那主義と混同して貰ひたくない。四十余年の長い間作者に接近した私としては、禅の即今に通じ、道元禅師の今日一日の行持に通じ、耶蘇の空飛ぶ鳥の教へに通ずる永遠の現在らしいものを生れながらにして身に著けてゐた人だと思ふ外はない。
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花吹雪兵衛の坊も御所坊も目におかずして空に渦巻く
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有馬での作。何々坊といふのは有馬の湯の宿特有の名でその広大な構へと相俟つてこの温泉の古い歴史と伝統とを誇示してゐる。有馬には桜が多くその散り方の壮観が思はれるが、それが坊名をあしらふことによつて有馬情調そのまゝに表現されてゐる。
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下京《しもぎやう》や紅屋《べにや》が門《かど》をくぐりたる男うつくし春の夜の月
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[#全角アキは底本ではなし]うつくしはもとかはゆしとあつてそれ故に名高かつた歌の一つである。ここには作者の意志を尊重して改作の方に従つたが、晶子フアンの一人兼常博士などはかはゆしでなければいけないと主張される。成程さう聞くとかはゆし[#「かはゆし」は底本では「かあゆし」]の方がよいかも知れない。しかし要は下京あたりの春の夜の情調が出ればそれでよいのであらう。紅屋とは紅花を煮て京紅をつくる家の意味であらう。若旦那か番頭か美男が一人門から出て来たといふのであるが、断るまでもなくこれは明治時代の話です。
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山荘へ凧吹かれぬと取りに来ぬ天城なりせば子等いかにせん
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伊豆三津の五杉山荘滞在中の作、子供が山荘へ落ちた凧を取りに来た。山荘だからよかつたものの、このうしろの天城山へでも飛んだのだつたらどうだらうといふ即事のユウモアであるが、このユウモアがこればかりの些事を生かして一個の詩を成立させてゐるのである。
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網倉の隅に古網人ならば寂しからまし我がたぐひかは
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どこの漁村でも網倉といつたものはあらう。三津浜のそれは相当大きなもので私もそれをのぞいて見たことがある様な気がする。その隅の方に今は使はれない古網が棄てられてあつた。作者はそれを我が身に引きくらべ、わたしどころではないと寂しさうな古網に同情した歌である。非情をとらへて生あるものの様に取り扱ふ手法は何も珍しい事ではないが、この作者の場合は実に迫つて相手の非情に自己の生命を分けてゐるやうにさへ感ぜられる。
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養はるる寺の庫裡なる雁来紅輪袈裟は掛けで鶏《とり》追はましを
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この歌も今日では立派なクラシツクで、古来の名歌と一列に朗々として誦すべきものの一つであらう。庫裡の前の雁来紅が真紅に燃えて秋も漸く深い、さて配するにこの寺の養子であるいたづら盛りの小僧さんを以てして情景を浮び上らせてゐるわけだ。寛先生自身又その令兄達皆幼時からそれぞれ寺に養はれた事実があるが、それがこの歌のモチイフを為してゐること勿論の話だ。
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雪厚し長浜村の船大工槌打つほどの赤石が岳
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これも三津浜で作つたものの一つ、しかしこの歌はほんとうには私によくわからない。それをここへ出したのは、その取り合せが如何にも面白いからである。三津から見た富士は天下第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。低くて手が届きさうにさへ見える、長浜村の船大工なら槌でこつこつ叩けさうな気がする。まあそんな風にこじつけて見るより外私には致し方がないが、まあ意味はどうでも宜しい。赤石岳と船大工の取り合せが面白いので私は之を愛誦する。
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さしかざす小傘《をがさ》に紅き揚羽蝶|小褄《こづま》とる手に雪散りかかる
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京の芸子のこつてりした風俗は、作者の好みによく合致したものらしく、第一集乱れ髪の主要テマとなつたと共にそれからも長い間歌題を供給した。この歌などもその最も成功したものの一つで、説明する迄もなく、昔の鴨東辺の情景が絵のやうにはつきり現はれてゐる。同じ雪の夜の歌に 友禅の袖十あまり円く寄り千鳥聞く夜を雪降り出でぬ 之は舞子ばかりの集りらしい。又 川越えて皷凍らぬ夜をほめぬ千鳥啼く夜の加茂の里びと 又明けては 後朝《きぬ/″\》や雪の傘する舞衣うしろ手見よと橋越えてきぬ 冬川は千鳥ぞ来啼く三本木紅友禅の夜著干す縁に 舞衣五人紅《いつたりあけ》の草履して河原に出でぬ千鳥の中に 嵐山名所の橋の初雪に七人渡る舞衣かな など色々あるが皆とりどりに面白い。
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再生の荷葉《かせふ》と拝む大愚なき世に安んじてよく眠れ牛
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伊豆伊東に近い大室山[#「大室山」は底本では「大宝山」]の麓にこの頃一碧湖といはれてゐる吉田の大池がある。その丘陵上に島谷亮輔さんの抛書山房があるが、先生夫妻の好んで遊ばれた所である。近年乳牛も飼はれてゐたので、乳牛の歌も数首作られた、その一つ。大愚といふ和尚は支那にも日本にも居る。荷葉の生れ替りだといつて牛を拝んだといふ話、私は知らないがありさうな話だ。牛から云へば至極迷惑のことでくすぐつたいこと夥しく、こんなことが始終あつては落付いて眠れもしない。しかし安心するがよい、牛の拝めるやうな
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