とんと年を重ねるにつれて恋の積るのに似てゐると、その頃五十二三でなほ若さの残つてゐた作者はさう感じたのである。序だからいふが、発句では「や、かな」を使はないことになつてゐるさうだ。それには十分な理由がある。然るにこの作者は若い時からお構ひなしに盛に使つてゐる。私はその多くの場合にやはり承服出来ないものがある。例へば 鎌倉や[#「や」に白丸傍点]み仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな[#「かな」に白丸傍点] の如き歌では如何にも耳ざはりである。然るにこの歌の場合に限つて少しも障らないのは如何いふわけであらうか。
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快き秋の日早く来たれかし飽ける男のその証《あかし》見ん
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早く気持のいい秋が来て欲しい。あの男は十分恋を満喫し、もう沢山だといつて寄りつかなくなつてしまつたが、果してそれが事実なら、秋になつたらその証拠があがることだらうから。私の見解では、満喫したと思つたのは暑さのせいで、私はあの男を満足させた覚えはない。それ故気持のよい秋が来たら、腹が急に減つて満腹感などはつひ忘れて必ずまた来るに違ひない。而して逆に満腹して居なかつた証
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