東京の郊外となり終つた今の玉川でない、昔の野趣豊かな玉川の歌である。芒と葦の中を水勢稍急に美しく流れる玉川であつた。夏の日も暮れて薄月がさしてゐる。岸には男の取つて来た鮎を窓のある小桶に入れたのを持つて水に浸けにゆく女がゐる。これも亦明治聖代の一風景である。

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浜ごうが沙をおほえる上に撤き鰯乾さるる三保の浦かな
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 三保の松原は昔からの名所であり、羽衣伝説の舞台であり、その富士に対するや今日も天下の絶景である。その三保の松原と鰯の干物とを対照させた所がこの歌の狙ひである。今日の様に一尾一円もする時代では鰯の干物の値打ちも昔日の比でなく、この歌の対照の面白味も少しく減るわけだが、この歌の出来た頃の干鰯の値段は一尾一銭もしなかつただらう。而して最下等の副食物としてその栄養価値の如きは全く無視され化学者達の憤りを買つてゐた時代の話だ。三保の松原の海に面した沙地一面に這ひ拡つた浜ごうの上に又一面に鰯が干されて生臭い匂ひを放つてゐる。その真正面には天下の富士が空高く聳えて駿河湾に君臨してゐる。さうしてそれが少しも不自然でなくよく調和してゐる。普通の観光客なら聖地を冒涜でもするやうに怒り出す所かも知れない、[#「、」は底本では欠落]そこを反つて興じたわけなのであらう。

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わが哀慕雨と降る日に※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《いとど》死ぬ蝉死ぬとしも暦を作れ
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 君を思ふ哀慕の涙がことに雨の様に降る日がある。そんな日附の所へ、※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]死ぬ日、蝉死ぬ日などと書き入れた暦を作らせて記念にしたい。こんな心であらうが珍しい面白い考へだ。暦のことはよく知らないが昔の暦にはそんな書入れがあつたのであらう。これも当時から相当有名な歌であつた。

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義経堂《ぎけいどう》をんな祈れりみちのくの高館に君ありと告げまし
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 鞍馬山での歌。そこに義經を祭る義経堂がある。その前で祈つてゐる女がある。靜《しづか》さんのみよりのものでもあらうか、さうなら君は御無事で奥州秀衡の館に昔の様にして居られますと教へてやらうといふ歌だが、その裏にはこの女にはまだ君といふものがあるのに君のありかを知つてゐる私には反つてそれがないといふ意が隠れてゐる。

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秋霧の林の奥の一つ家に啄木鳥《きつつき》飼ふと人教へけり
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 故あつて失踪した人、恐らくは自分を思つてその思ひの遂げられぬことが分つた為に失踪したらしいあの人が、秋霧の深い山の奥の一軒屋にかくれ住んで啄木鳥を友として静かに暮してゐるといふ噂がこの頃聞えて来た。一つの解はかうも出来るといふ見本だ。読者は自己の好む儘に解いてそのすき腹を満たすが宜しい。

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大阪[#「大阪」は底本では「大附」]の煙霞及ばず中空に金剛山の浮かぶ初夏
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 六甲山上から大阪の空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んでゐる。あの濛々と空を掩ふ様な大阪の煤煙[#「煤煙」は底本では「媒煙」]もここから見れば金剛山の麓にも及ばないのだと感心した心も見える。その煙霞といつたのは写生で殊更に雅言を弄んだのではない。

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後朝《きぬぎぬ》や春の村人まだ覚めぬ水を渡りぬ河下の橋
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 川上の女の家を尋ねてのあした、村人さへまだ起きぬ早朝、朝靄のほのかに立ち昇る静かな春の水を見ては幸福感に浸りつつ河下の橋を渡つて家路に急ぐ心持であらう。晶子さんの所謂、恋をする男になつて詠んだ歌の無数にあるものの一つだ。

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狭霧より灘住吉の灯を求め求め難きは求めざるかな
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 何といふ旨い歌だ。これも十二年の初夏六甲山上の丹羽さんの別荘に宿られた時の歌。薄霧の中に麓の灯が点々として見られる。あの辺が灘それから住吉と求めれば分る。しかし人事はさうは行かない、求めても分らない、故人がさうだ、だから求めても分らないものは初めから求めないことにした。眼前の夜景によそへてまたもやるせない心情を述べたものである。求めるといふ言葉の三つ重つてゐる所にこの歌の表現の妙も存するのであるが、誰にでも出来る手法ではない。

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君に似しさなり賢こき二心こそ月を生みけめ日をつくりけめ
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 私は君唯一人を思ふ、それだのに君はさうではなく同時に二人を思つてゐるやうだ、それは二心《ふたごころ》と云つて賢いのであらう、丁度天に日と月とがあるやうなものだ。しかし私は二心は嫌ひだ、どこまでも一人に集
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