。それだから句法も散文と違はないものが用ゐられるわけだ。しかし歌のやうな短いものの中へ、これからの新らしい複雑な思想を盛るには、形を壊してしまふか、新たに従来ない様な句法を採り入れるか何れかによらねばなるまい。前者は啄木によつて試みられたもの、後者は晶子さんが若い時乱れ髪でやつて成功しなかつた方法である。それに懲りてか晶子さんは成るべく之を避けた。教養の豊かな字彙に富んだ晶子さんなら避けることも出来るが、之からの若い人達にはそれは望めない。勢ひこれからは従来の散文にない新らしい句法のどしどし用ひられる時代が来よう。私はむしろそれを望む。この歌の初めの一句「後ろにも」は本来なら次の「湖水を」の次に来なくては意味が取りにくいのであるが、短歌のもつ制約の為にそれが顛倒したのである。こんな所からはじめて見たらどんなものであらうか。秋の進まないのに草の早く枯れかかつたのは、山の上だからでもあらうが、前後に湖沼を控へ朝夕その冷気を受けるからであらうといふのである。

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うつら病む春くれがたやわが母は薬に琴を弾けよと云へど
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 薬に琴を弾くといふ云ひ方は日常語では誰でも使ふが、歌の中で使つたのは晶子さんがはじめてでそれだけ、その効果は頗る大きかつた。今日の感じでもやはり面白いと思ふ。名工苦心の跡ではなく、唯の軽いタツチに過ぎないが面白い。

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盆の唄「死んだ奥様《おくさ》を櫓に乗せて」君をば何の乗せて来らん
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 信州松本の浅間温泉に泊つた時丁度盆で盆踊りを見た所、「死んだ奥様を櫓に乗せて」と唄ひ出した。さうだ盆といへば、君の帰る日であるが何に乗つて帰るのだらうと反射的に歌つたもので、をかしみをまじへた悲哀感がよく出てゐる。

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牡丹植ゑ君待つ家と金字して門《もん》に書きたる昼の夢かな
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 明治末葉寛先生のはじめた新詩社の運動には興国日本の積極性を意識的に表現しようとする精神が動いてゐた。この歌の如きもその精神のあらはれで、従来のか細い淋しい又はじみな日本的なものを揚棄して、一躍してインド的なギリシア的な積極性の中へ踊り込んだものである。この精神は相当長い間衰へずに作者の護持する所であつたが、時の経過は争はれず、晩年の作には段々かういふ強い色彩が見られなくなり、しまひにはもとの古巣の日本的東洋的なものに帰つてしまはれたのは是非もない次第だ。しかし之からの日本は再び明治の盛な精神に立戻るのであらうから、そこで若い晶子はどうあつてもも一度見直されねばならないのである。

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大般若転読をする勤行《ごんぎやう》に争ひて降る山の雨かな
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 十二年五月雨頃奥山方広寺に暫く滞留して水月道場の気分に浸られた折の作。大本山と呼ばれる様な大きな禅院では毎早朝一山の僧侶総出の勤行があり、さうして大抵は大般若経転読の行持も一枚挾まる様だ。転読とは御経を読むのではなく、めいめい自分の前の大きな御経の本を取つて掛け声諸共にばらばらつと翻すのである。それが揃つて行はれるので洵に見事なものだ。その時降つてゐた山の雨がその音を打ち消さうとしていよいよ強く降り出す光景である。方広寺の環境がよく偲ばれる歌だ。この時は又 奥山の白銀の気が堂塔をあまねく閉す朝ぼらけかな などいふ響のいい歌も出来てゐる。

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秋の風きたる十方玲瓏に空と山野と人と水とに
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 いふをやめよ、如斯は一列の概念であると。概念であらうと何であらうと優れた詩人の頭の中で巧妙に排列され、美しいリトムを帯びて再び外へ出て来た場合にはそれはやはり立派な詩である。この歌などは他の完璧に比し或は十全を称し難いかも知れないが尚、少し開いた所で野に叫ぶヨハネの心持で高声に朗誦する値打ちは十分ある。

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鉄舟寺老師の麻の腰に来て驚くやうに消え入る蛍
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 この鉄舟寺老師こそ先にも云つた通りの、一生参学の事了つた老翁の茶摘み水汲み徳を積む奇篤な姿である。一生の好伴侶を失つて淋しい老女詩人と少しもつくろはぬ老僧とがやや荒廃した鉄舟寺の方丈で相対してゐる。そこへ久能の蛍が飛んで来て老師の麻の衣にとまつた。とまつたと思つたら光らなくなつた。とまつた所が徳の高い菩薩僧の腰であることの分つた蛍は恐縮して光るのをやめたのである。驚くやうにといふ句がこの歌の字眼である。

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川添ひの芒と葦の薄月夜小桶はこびぬ鮎浸すとて
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 渋谷時代によく行かれたのであらうが玉川の歌が相当作られてゐて之もその一つである。それらはしかし
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