ほんとうは如何あらうとこの人にだけはよいことをいつてあげておくれ、可哀さうと思ふなら。字面どほりに解釈すればこんなことになるのだが、相人が相人でない場合もあり得るので、別の解も出て来るだらう。それは鑑賞者の自由だ。

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多摩の野の幽室に君横たはり我は信濃を悲みて行く
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 十二年の秋大人数で奥軽井沢三笠の山本別邸に押しかけた折の作。この頃は時の作用で悲しみも大分薄らいで居られたが、軽井沢へ著いて歩いて見るとまた急に昔が思はれて、私は今かうして大勢と一しよに信濃路を歩いて居るのに同じ時に君は多摩墓地の墓標の下深く眠つて居るのだと自他を対比させ、も一度はつきり悲しい境遇を自覚する心持が歌はれてゐるやうである。

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君帰らぬこの家一夜に寺とせよ紅梅どもは根こじて放《はふ》れ
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 随分思ひ切つた歌である。晶子さんでなければ云へないことだ。しかし実際の晶子さんは、思想上の激しさに拘らず、どんな場合でも手荒なことの出来なかつた、つつしみ深い自省力を持つた人だつた。しかし女の嫉妬に美を認めて之をうはなり妬み美しきかなと讃美した作者は自身も相当のものであつた。この歌なども実感そのままを歌つたものと見てよからう。但し寺とせよといふ句は家を捐《す》てて寺とする平安文化の一事象から出て来たのであらうからその方に詳しい晶子さんでなければ云へない所だし、紅梅など根こじにこじて捨ててしまへなども実に面白い思ひ付きだ。

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雨去りて又水の音あらはるゝ静かなる世の山の秋かな
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 同じ時の歌。今思へば既に澆季に這入つてゐたといふものの、あの頃はまだ静かな世の中であつた、嘘のやうな話だが、それ故にこんな歌を詠めたのだ。晶子さんの事を思ふと私どもはいつもああいい時に死なれたと思ふ。晶子さんの神経の細さはとても戦禍などに堪へえられる際でない、さうしてその鋭さの故に、雨が止んで反つて水音の顕はれる山の秋の静けさもはつきり感ぜられるのである。同じ時朴の落葉を詠んだ歌に その広葉煩はしとも云ふやうに落とせる朴も悲しきならん といふのがあるが、この煩はしとも云ふやうな感じなどは、ただの神経の琴線には先づ触れない電波の一種ではなからうか。

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やはらかに寝《ね》る夜|寝《ね》ぬ夜を雨知らず鶯まぜてそぼふる三日
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 今日の進歩した私達から見ればこの位の表現は何の事もないかも知れないが、明治三十七八年頃の事で作者も漸く二十七八にしかならなかつた当時、春雨が鶯をまぜて降るなどいふ考へ方をした作者の独創性《オリヂナリテ》は全く驚くべきである。快い春雨がしとしとと三日も続けて降つて居る、しかしその春雨も家の中の人が、一夜は何の気遣ひもなくよく眠れ、又次の夜はまんじりとも出来なかつたことなどは少しも知らない、唯鶯をまぜてしとしとと降るだけの芸だ。先づそんな意味であらうか。

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白河の関の外なる湖の秋の月夜となりにけるかな
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 十一年の仲秋岩代に遊び猪苗代湖に泊して詠んだ歌の一つ。猪苗代は緯度からいふと白河の関の直ぐ外側にあるのだからこれでいいわけだが、実は秋といふ季節が連想をそこへ運んだのかも知れない、例の秋風ぞ吹く白河の関の仲介で。そんなことは如何でもよいが猪苗代湖の秋の月夜のすばらしさが例の堂々たる詠みぶりから天下晴れてあらはれてゐる。

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行く春や葛西の男|鋏刀《はさみ》して躑躅を切りぬ居丈ばかりに
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 今を盛りと咲き誇つてゐた躑躅も漸く散つて春も暮れようとする一日、一体に大きくなり過ぎてゐたそれらの躑躅の手入れに植木屋を入れた。来た職人は葛西寺島村の生れで堀切の菖蒲の話などをする。こんな案梅な歌であらう。行く春の郊外の静かな一日である。

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後ろにも湖水を前にせざるものあらざる草の早くうら枯る
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 同じ時裏磐悌の火山湖地帯にも遊んだが、その時の作。私は側まで行つてつひに行き損じたが、湖沼の水色のとても美しい処ださうだ。それで なにがしの蝶の羽《は》がもつ青の外ある色ならぬ山の湖 私ならカプリの洞の潮の色と恐らく云つたであらうと思はれる歌である。西洋の詩では句法が散文に比し大に違つてゐて誰も怪しまないのは、韻を踏む必要上さうしないことには文を成さないからである。然るに歌でも詩でも日本には韻を踏むといふ事がないから自由に歌へる。日本の詩歌には成るほど音数の制があつてリトムは具つてゐるが韻を踏むといふ厄介千万な習慣がないのではじめから自由詩のやうなものである
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