に宿つてゐる気分になるのである。
[#ここから2字下げ]
春の宵壬生狂言の役者かとはやせど人はもの云はぬかな
[#ここで字下げ終わり]
春の夜の恋人同志の小葛藤である。「壬生狂言」は京の壬生寺の行事となつてゐる一種の黙劇で決して物を云はない。即ちおこつて口をきかなくなつた相手をからかふのである。この狂言は念仏踊の進化したものでをかしみたつぷりのものらしい。従つてはやせどといふのである。
[#ここから2字下げ]
天地の春の初めを統べて立つ富士の高嶺と思ひけるかな
[#ここで字下げ終わり]
久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。私はそこへ登つたことはないが、ある正月のこれも晴れた日に清水税関長の菅沼宗四郎君と共に三保の松原に遊んでそこから富士を見たことがある。その大きなすばらしい光景を富士皇帝といふ字面であらはし駿河湾の大波小波がその前に臣礼を取る形の歌を作つたことがあるが、この歌ではそんなわざとらしい言葉も使はず、正しく叙しただけで私の言はうとしたと同じ心持がよくあらはれてゐる。私はこの歌によつても私と晶子さんとの距離のいかに大きいかを思つた。ことにその調子の高いこと類がない。又この歌に続く次の二首があつて遺憾なくその日の大観が再現されてゐる。曰く 類ひなき富士ぞ起れる清見潟駿河の海は紫にして 大いなる駿河の上を春の日が緩く行くこそめでたかりけれ
[#ここから2字下げ]
春の海いま遠方《をちかた》の波かげに睦語りする鰐鮫思ふ
[#ここで字下げ終わり]
終日のたりのたりかなでは曲がない。そこで遥か遠方に鰐鮫の夫婦を創造して彼等に睦語りをさせることにより、春の海の情調を具象させるのである。
[#ここから2字下げ]
君に教しふ忽忘草《なわすれぐさ》の種蒔きに来よと云ひなば驚きてこん
[#ここで字下げ終わり]
この君は親しい女友達である。少しあの方の足が遠のいてゐる由の御たよりに接し意外に思ひます。しかし何でもないことですよ。斯う書いてやつて御覧なさい。春が来ました、忽忘草の種を蒔きに来て下さいと。それだけで驚いて来ますよと書き送る形であらう。これも明治の歌を代表するものの一つで、立派なクラシツクである。
[#ここから2字下げ]
薄曇り立花屋など声かけん人もあるべき富士の出でざま
[#ここで字下げ終わり]
やはり鉄舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。それはどうしても羽左衛門といふ形である。大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。外の役者ではだめである。これからの若い人達の為にこの間まで羽左といふ小さい天才役者のゐたことを書きつけて置いてこの歌の感じをよそへることにする。
[#ここから2字下げ]
君は死にき旅にやりきと円寐しぬ後ろの人よものな云ひそね
[#ここで字下げ終わり]
別に説明を要しないであらう。唯その言葉の音楽の滑るやうな快調がほんとうに味はへれば、それでこの歌の観賞は終るわけである。
[#ここから2字下げ]
長閑なり衆生済度の誓ひなど持たぬ仏にならんとすらん
[#ここで字下げ終わり]
同じく鉄舟寺での作。その時の住持は私も一度御目にかかつたが近頃珍しい老清僧で、知客、典座の役まで一人で引受けられる位気軽な、良寛ほども俗気のない方だつた。さういふ和尚さんを相手に何の屈托もなく春の一日を遊び暮す作者の心持、それがあらはれてこの歌になるのである。
[#ここから2字下げ]
君まさぬ端居やあまり数多き星に夜寒を覚えけるかな
[#ここで字下げ終わり]
夫の留守を一人縁に出て涼んでゐたが、ふと夜空を仰ぐと降るやうな一面の星だ。それを見てゐると急に寒くさへなる。作者に於ては冴えた星の光と寒さとの間に何か感覚のつながりがあるであらう。
[#ここから2字下げ]
明星の山頼むごと訪ねきて積る木の葉の傍に寝る
[#ここで字下げ終わり]
十二年の晩秋箱根強羅の星山荘にあつての作。明星の山は前の明星が岳である。あの山を頼みにして訪ねて来たのに、この落葉の積りやうは如何だ、まるで落葉の中に寝に来たやうだ。積る木の葉の傍に寝るとは何といふ旨さだ、唯恐入つてしまふ。
[#ここから2字下げ]
相人よ愛欲せちに面痩せて美くしき子によきことを云へ
[#ここで字下げ終わり]
面痩せて美しき子即ち痩せの見える細面《ほそおもて》の美人が、愛欲の念断ち難く痩せるほど悩んで、未来を占はせてゐるのだ、人相見さん、
前へ
次へ
全88ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング