中する。それが愚かしいことであらうがなからうがと云ふので、之は晶子さんの初めからの信条であり又信仰でもあつた。それ故 やごとなき君王の妻《め》に等しきは我がごと一人思はるゝこと といふ歌もあり又 天地に一人を恋ふと云ふよりも宜しき言葉我は知らなく などいふのもある。
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伊香保山雨に千明《ちぎら》の傘さして行けども時の帰るものかは
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十一年の春伊香保での作。丁度雨が降り出したので温泉宿|千明《ちぎら》の番傘をさして町へ出掛け物聞橋の辺まで歩いて見た。所は同じでもしかし時は違ふ、過ぎ去つた時は決して帰ることは無いのである。この折榛名湖の氷に孔をあけ糸を垂れて若鷺を釣る珍しい遊びを試みた人があつた。それは 氷よりたまたま大魚釣られたり榛名の山の頂の春 と歌はれ、又 我が背子を納めし墓の石に似てあまたは踏まず湖水の氷 といふ作も残されてゐる。
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思はれぬ人のすさびは夜の二時に黒髪梳きぬ山ほととぎす
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少し凄い歌で人を詛ふ[#「詛ふ」は底本では「咀ふ」]やうな気持が動いてゐる。山の中の光景で、男に思はれない一人の女が夜の二時に起き出して髪を梳いてゐるとほととぎすが啼いて通つた。華やかなことの好きだつた晶子さんには斯ういふ一面もあつた。 誓ひ言我が守る日は神に似ぬ少し忘れてあれば魔に似る [#空白は底本では「。」]その魔に似る一面で、時には強烈な嫉妬の形を取つて現はれることもあつたやうだ。
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雪|被《かぶ》り尼の姿を作るとも山の愁は限りあらまし
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箱根の山に雪が降つて尼の様な姿になつた。山の愁はしかしそれだけのもの、形丈のものであらう。しかし生きてゐる限り私の心にある愁は何時迄も続いてゆくといふのである。
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君が妻は撫子※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して月の夜に鮎の籠篇む玉川の里
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これも昔の玉川風景の一つ。鮎漁を事とする里の若者をとらへて詠みかけた歌であらう。昼摘んだ川原撫子を簪代りに※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した若い女房が月下に鮎の籠を編む洵にそれらしい情景が快く浮んで来る。
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返へらざる世を悲しめば如月の磯辺の雪も度《ど》を超えて降る
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早春大磯に滞在中、雪の余り降らない暖かい大磯には珍しい大雪が偶※[#二の字点、1−2−22]降り出した。返らない世を悲しむ私の心を知つてか知らずにか、この雪の降り方は尋常ではない。度を越した悲哀を形にして私に見せてくれる様でもある。そんな心であらう。この大磯滞在中の作には面白いのが多いから二三挙げよう。丁度節分だつたのでこんな歌がある。 大磯の追儺《つゐな》の男豆打てば脇役がいふ「ごもつともなり」 その大雪の光景は又 海人《あま》の街雪過ちて尺積むと出でて云はざる女房も無し と抒述されてまるで眼前に見る様だ。その雪の上を烏が一羽飛んでゐた、それは直ちに昔故人と一しよに鎌倉で見た烏の大群と比べられ、 この磯の一つの烏百羽ほど君と見つるは鎌倉烏 となり、又東京から、東京は大吹雪ですが、そちらは如何ですかといふ電話が来たのを 東京の吹雪の報の至れども君が住む世の事にも非ず と軽く片付けたのなど何れもそれぞれ面白い。
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半身に薄紅《うすくれなゐ》の羅《うすもの》の衣纏ひて月見ると云へ
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さて如何いふ光景を作者は描かうとしたのであらうか、これだけでは分らない。読者は好む儘に場合を創り出してよからう。たとへば奥様は余り暑いのでベランダで半裸体になつて月を浴びてゐます、ですから御目にかかれませんと云へとのことですと小間使ひか何かに旨を含めて男を断るといつたやうな場合である。
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我が手をば落葉焼く火にさし伸べて恥ぢぬ師走の山歩きかな
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自分では最後まで形の上でも若さを失はない様に努めて居られたが、年六十を越えて枯れきつた老刀自の面目はちよいちよいその片鱗を示し、これなどもその一つと見てよからう。
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地は一つ大白蓮の花と見ぬ雪の中より日の昇る時
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言葉といふ絵具を使つて絵を描く絵師がある。この作者もその一人であるが、若い時から特別の技量を具へてゐて容易に人の之に倣ふを許さなかつた。而して大きな光景を描く時に特にはつきり之が現はれたものである。この歌の如きもその一例である。白皚々たる積雪を照らして金の塊りの様な朝日が登つて来
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