しからずや道を説く君 など同じテマに属する一連の作があること昔は誰でも知つて居た。

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正月に知れる限りの唱歌せし信濃の童女秋も来よかし
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 久しく病床に伏す人の何物かを待つ気持がこれほどよくあらはれてゐる歌は多くあるまい。又 危しと命を云はず平らかに笑みて[#「笑みて」は底本では「笑ゐて」]我あり友尋ね来《こ》よ とも歌はれてゐる。余り屡※[#二の字点、1−2−22]病床を御尋ねしなかつた私などはこれらの歌を読むとほんとうにすまなかつたといふ気がする。

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こし方や我れおのづから額《ぬか》くだる謂はばこの恋巨人の姿
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 之は作者自身の場合を述べたものであるから、事実を知らないとよく分らない。晶子さんが與謝野夫人になるには実に容易ならぬ障礙を突破しなければならなかつた。寛先生の側にも面倒があり、作者は 親兄の勘当ものとなり果てしわろき叔母見に来たまひしかな といふ歌のやうに、父兄から勘当同様の身となり、剰へ新夫妻は恋仇の恐ろしい報復を受けて一時は文壇の地位をさへ危くしたほどであつた。それは即ち一切の因習、道徳、義理、人情、善悪等を超越した行為であつた。それは殆ど宗教的の意義をさへ持つてゐた。或は人間至上主義といつたら反つて当つてゐるかも知れない。晶子さんの人間として偉大な一生はこの強烈な恋の道行から出発し、それを一筋に最後まで押し進めていつたことに尽きる。これだけの予備知識を以て臨めば、この歌の意味もその強い調子も自ら分るであらう。自分自身にさへも頭が下るといふのである。又人間性に対し深く考へさせられるこの一つの場合が簡潔に巨人の姿の一句で表現せられてゐることも適切である。これに依つて晶子さんが自身の場合をどう見てゐたかよく分り、世間の道徳律などを盾に彼此批判すべき筋のものでないことも分つて、悲痛の響をさへ帯びてゐる歌である。さうは云ふものの作者も亦唯の人間だ。その人間らしい歌に 親いろせ神何あらんとぞ思ふああこの心猛くあれかし といふのも見出される。

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紅《べに》の萩みくしげ殿と云ふほどの姫君となり転寝《うたたね》ぞする
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 これは病床から偶※[#二の字点、1−2−22]起き上つて坐椅子か何かに助けられ、僅に接し得る外界、庭の萩を見ながら詠まれたもので、作者の平安趣味のすらすらと少しも巧まずに眼前の風物を縁にあらはれてゐる気持のよい歌である。しかし斯ういふ歌はあまり真似をしてはいけない。真似ても歌にはなりにくい。なぜなら人間の反映がこの歌を為してゐる。さういつても過言でないからである。

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少女《をとめ》なれば姿は羞ぢて君に倚る心天ゆく日もありぬべし
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 晶子さんを親しく知らない人は、その書いたものから逞しい女丈夫などを想像するかも知れないが、実は若い時から物静かなはにかみやで、見た所は純日本風のしとやかな奥様でしかなかつた。唯心中に炬火が燃え盛つてゐて、又自らの天分を高く評価して居られたのが他との相違である。それをその儘詠出するとこの歌になる。

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片隅に柿浸されし上つ毛の古笹の湯の思はるる秋
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 静かに病床に横たはる長い病人が、大分薄れた意識で曾遊の地を思ひ出す場合、印象の強く残つたものだけが浮び上つて来ることだらうと推定される。従つてさうして出来た歌も自ら印象的のものとなつて、殆ど凡てが金玉の響を伝へ、その数は少いが健康時の作の持たぬ濃いニユアンスを持つのはその処である。この歌もその一つで、渋を抜く為に温泉に浸されてゐた柿の色が強く印象に残つてゐたものと思はれてこの歌が出来たのであらう。作者が笹の湯に遊んだのは十四年頃で 逞しき宿屋の傘を時雨やみ大根の葉へ我置きて行く などその時も多数の作が残つてゐる。

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紫の我が世の恋の朝ぼらけもろての上の春風薫る
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 久しくあこがれてゐた恋がいま成就しようとしてゐる、その時の心を、かぐはしい朝の春風がもろ手の上にをどるといふ境に具象した歌であるが、こんな歌さへ晶子以前には決してなかつただらう。因に紫といふ色は晶子好みとでもいふべき色で、著る物なども多くこの色で染められ晩年まで変らなかつたといふことである。

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友帰り金剛峰寺の西門の入日に我をよそへずもがな
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 常に吟行を共にした御弟子の近江滿子さんが一人高野山に登られたのを病床で想像しながら詠まれた歌の一つ。何れ死ぬのであらうが死ぬ事はやはり淋しい事だ。そんな事は思ひたくないといふ感じを西門の入日
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