替へれば明治新調の成立したのは明治三十六年頃の事で、それ以前を私は発酵時代と名づける。さうして「乱れ髪」はその混沌たる発酵時代を代表してゐるのである。試みに開巻第一の歌 夜の帳にさきめきあまき星の今を下界の人の鬢のほつれよ を取つて見よう。あの星のまたたくのを見てゐると天上界では人々翠帳にこもつて甘語しきりなるを思はせるのに、その同じ時下界の私は一人で悶々としてゐるといふ様な意味に解せられるが、「星の今を」など随分無理な言ひ廻しであり、終りの「よ」なども困りものである。しかし詩の内容と外形とは二にして実は一つのものであるから、作者と雖後になつては之を如何ともしかたがなかつたものと思はれる。その「乱れ髪」の中にも相当調つた歌が少しはある。秀歌選には二十二首採つたが、この黒髪の歌もその一つで、私は之を開巻第一首とした。乱れ髪といふ本の名がどこから来たものか、つひ質さずにしまつたが、或はこの歌などから採られたのではないかとも思はれる。私はさう思つて秀歌選ではその「乱れ髪」の巻のはじめに置いて見たのである。一人孤閨にあつて思ひ乱れる麗人の心緒を髪の乱れに具象した作でそれだけのものであるが、髪の字を畳みかけて三つ重ね、その印象を読者の脳裏に刻みつけつつ、思ひ乱れ思ひ乱れと更に二つ言葉を重ね深く強く言ひ表はして成功してゐると私は思ふ。「かつ」といふ字句もよく利いてゐる。作者は岩波文庫本を自ら選ぶに当つて「乱れ髪」から十四首を採つたが、この歌は這入つてゐない。作者も重く見ず、世間的に有名な歌でもないが、繰り返し朗誦して厭くことを知らない佳作だと私は思つてゐる。
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鵠沼の松の敷波ながめつつ我は師走の鶯を聞く
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病歿の前年昭和十六年の十二月、十二月は作者の誕生月であるから病床にありながら最後とも思はれる内祝もすませ、折から初まつた戦争の事を思へば いくさある太平洋の西南を思ひて我は寒き夜を泣く と歌ひながらも暫くは之を忘れ、心静かに木高い杉並辺には今なほ来鳴く武蔵野の冬の鶯を聞いてゐると鵠沼の松林がまぼろしに見える。上から見ると海の波の様にも見えるといふのであらう。何時の初冬であらうか、私も御いつしよに鵠沼に行つて皆で歌を詠んだことがあるが、この歌を読むと寝ながらその松林を想像に描いてゐる光景が私の脳裏にまざまざと浮んで来る。洵に大家の間吟として相応しい心憎い歌といふべきであらう。その内秀歌選の再版を出す様な折もあらうが、その際は極く少し許り改訂を試みたい。即ち軍に関係したものや満洲開拓の分などは削りたい。さうすると巻尾の歌はこの歌になるであらう。又鵠沼の歌には十三年頃詠まれた 鵠沼は広く豊かに松林伏し春の海下にとどろく といふのがある。
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ゆあみして泉を出でしわが肌に触るるは苦し人の世の衣《きぬ》
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「乱れ髪」の五十八首目にあり、裸体讃美の歌であるから、同集の持つ華麗な彩色の一つに数へられる。その頃明星は一條成美の簡単なスケツチ風裸絵の為に発売を止められた。さういふ時代であつたからこれも珍しかつたのである。集中無難な歌の一つで、それ故に作者も前記十四首の中に入れてゐる。
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禅院のそとの高松水色に霙けぶりて海遠く鳴る
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禅院は鎌倉の円覚寺を斥し、それは作者が好んで訪れ、又故寛先生の忌日なども大抵はここで行はれた因縁の深い寺院である、それを病床で空想に描いた歌で、この海もまた作者に最も親しい海である。鎌倉の海を思ふと直ちに私の口から出て来る歌がある。それは 鎌倉の由井が浜辺の松も聞け君と我とは相思ふ人 といふ歌である。「佐保姫」に出てゐるが、明治四十一年だと思ふ、私の動坂の寓居の歌会で作られたものである。はじめ互選の際作者を知らぬ儘に余りあらはなので私がけなしつけた処、後でそれが晶子さんのだと分つて、私の感じは不思議に表裏一転し忽ち之を讃美するやうになつた。さういふことがあつたので、今でも忘れないでゐる。若い人よ、歌を作るなら大胆に率直にこんな風に作つて見たら如何ですか。
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黒髪は王者を呼ぶに力わびず竜馬来たると春の風聴く
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これは第二集「小扇」(明治三十七年一月出版)の巻尾の歌で、調子の出来上つた後の作であるが、内容は「乱れ髪」を特色づける凛々たる勇気を誇示して恥ぢない歌だ。若い女が何物をも動かさずには置かない自らのはちきれさうな力を讃へるもので、日本文学にはそれまであまりなかつた思想である。春風を竜馬の訪れと聞くなど驚くべき矜貴といふべきである。 罪多き男こらせと肌きよく黒髪長くつくられし我 とか又有名な やは肌のあつき血汐に触れも見でさび
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