に托した歌で、さういふ場合の心細い感じが洵によくあらはれてゐる。しかしまた脱俗した趣きもあり健康時には反つて出来さうにもない歌である。同じ時の作に 色づきし万年草のひさがるゝ高野の秋も寒かりぬべし 桔梗など刈萱堂に供へつゝ高野の山を友の行くらん などがある。

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つばくらの羽にしたたる春雨を受けて撫でんかわが朝寝髪
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 日本では女の髪を黒髪といつて女そのものと同じ値をつけてゐる。その大切な黒髪を少女心のこよなくいたはる心持を詠んだ歌であるが、情景相応した気持のよい出来栄えで乱れ髪の中では最も無難な歌の一つに数へられる。

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刈萱は烏の末の子と云はん顔して著たるぶつさき羽織
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 昭和十五年の春夫人の仆れた脳溢血は可なり程度の強いもので一時は意識さへ朦朧となられたが次第に囘復し翌年の夏には起き上ることが出来、やがて上野原の依水荘へ出養生に行かれるまでになつた。精神力も著しく囘復し、半切なども書かれ、歌もここでは沢山よまれた。その帰途、小仏峠辺で車窓に映つた光景の一つがこれだと思はれる。ぶつさき羽織は武人の著た羽織で刀を差す為に背中から下が裂けてゐるあれである。烏の末の子とでもいふ様な顔をしてぶつさき羽織を著てゐる刈萱が車窓に映つたのである。斯ういふ表現は全く個人的な印象に本づくものであるから他人はどうすることも出来ない。唯それが天才の目に映じたものである場合に読者はそれに依つてものを見る目を開けて貰ふことが出来るだけである。天才の作品を読むことに依つて生活が豊かになるのはその為である。また斯ういふ表現法は従前の日本には無かつたことであるが、実は少しも珍しくはない。また短歌のやうな短い形式の詩では、斯ういふ風な表現によつて印象を適確に再現し得る場合が多い訳でもある。

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春短し何に不滅の命ぞと力ある乳《ち》を手に探らせぬ
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「乱れ髪」の代表的な作として久しく喧伝せられたものの一つであるが、これなどは今取り出して見ても若い生命の躍動が感ぜられて面白い。難は少しく明白に過ぎることだが、古陋な因習を断ち切つて人間性を強く主張するにはこの位にやらねばならなかつたのである。この歌の基調は現在主義であつて生命不滅観や既成宗教の未来観などを蹴とばしたものであるが、また同じ作者のものが一生を通じて生活の基調を為してゐて少くも変ることがなかつた。

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唐傘《からかさ》のお壼になりし山風の話も甲斐に聞けばおどろし
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 前記依水荘に出養生に行つて居られた時の作の一つ。夏の山の雨は往々にしてすさまじい勢ひを見せるものだ。この間にもさういふ雨が降つたと思はれ その昔島田の橋に君の会ひ我の会ひたる山の雨降る といふ歌があるが、その風雨の中を帰つて来た人の話を聴いて、こわいことだと山国の甲斐にあることを感じたのである。

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わが春の笑みを讃ぜよ麗人の泣くを見ずやと暇《ひま》なきものか
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 これは第三集「毒草」にある歌で、その調子は既に生長してゐて流麗まことに鶯の囀ずる如きものがある。さて歌の意味であるが一寸分りにくい。当時作者の好んで歌つた京の舞姫の場合ではないかと思ふ。さうだとすれば朝は「私の笑顔をほめよ」といひ夕は「こんな美人が泣いてゐるのに」と戯れつつたわいない一日を過ごすといふ様に解せられるが如何いふものだらうか。

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死も忘れ今日も静に伏してあり五月雨注ぐ柏木の奥
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 これも大分よくなられてからの歌だと思ふが、前の西門の入日の歌もあり又末嬢の藤子さんの家の焼けたことを依水荘で聞かれて やがてはた我も煙となりぬべし我子の家の焼くるのみかは と死の近づきを想見する歌もあるが、床上生活の大部分はこの歌のやうに静かに余りものを考へずに休んで居られた時間であつたらうと想像せられる。人間性の尊貴のために又自己の天分を高度に発揮しようとしてその旺盛な生活力を駆つて一生奮闘し続けた作者を知るものに取つては、せめて残された床上の生活位は安らかなものであつて欲しかつたが、事実もさうであつたらしくこの歌をよんでほつとした人も多いことであらう。

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いとせめて燃ゆるがままに燃えしめよ斯くぞ覚ゆる暮れてゆく春
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 春はいま終らうとしてゐる、その間だに青春の血の燃ゆるに任せようといふ例の積極的な力強い感じが批の打ち処なく美しくあらはれてゐる名歌の一つ。作者もこの歌は捨てなかつた。

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隅田川長き橋をば渡る日のありやなしやを云はず
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