思はず
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昼夜寝続けてゐる病人の幻想にあらはれるものは必ずや多少とも深い印象の残されたものに相違ない。隅田川もその一つであつて、一時は浜町辺の病院にゐる幻覚をつづけ 大君の都の中の大川にほとりして病む秋の初めに といふ歌さへ作られてゐる程であつた。この歌は、思想の動揺に堪へる気力がない、も一度直つて隅田川を渡れるか如何かそんなことさへ口へ出したり考へたりしないで置かうといふので、意識のうすれた心情がよく現はれてゐてあはれが深い。
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松前や筑紫や室《むろ》の混り唄帆を織る磯に春雨ぞ降る
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この歌はどういふものかあまり本に出て居ない。與謝野家がまだ渋谷の丘の下の家にゐた頃四五人集つて歌をよむこと毎月一度位はあつたやうであるが、ある日のさういふ席で作られたものである。当時歌の作り方の分らなかつた初心の私に強い印象を刻みつけた歌であるから今に忘れないものの一つである。偶※[#二の字点、1−2−22]その席に来合せた故馬場孤蝶先生もまたこの歌にひどく感心したやうな記憶がある。「室」は室の津である、あとは説明を要しないが、如何にものどかな磯の景色が絵のやうに浮ぶではないか。ただし之は明治の大御代の話であるから今日の読者には如何か分らない。
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身のいたしゆたのたゆたに縞葦の浸れる川へ我も入らまし
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同じ姿勢で寝つづけてゐる病人が、体が痛いのでどうかしたいと思つた時、ふと豊かな水の中で静かに縞葦のゆれる光景が目に浮んだ。あの葦のやうに川へつかつたら如何だらう。如何にも気持がよささうだと途方もない空想を描く歌である。さうしてこの途方もない空想こそ詩人に与へられた一つの特典なのである。
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紅《あけ》の緒の金鼓寄せぬと覚まさばやよく寝《ね》る人を憎む湯の宿
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京の舞姫を詩題に使つたもの若い晶子さんのやうなのは先づない。(後を吉井勇君によつて継承せられてはゐるが)。この歌もその一つで、有馬辺の小さな朝の光景のスナツプである。「金鼓」は軍鼓で、但し紅い紐がついてゐるから女持の軍鼓である。敵が攻めて来ましたよといつて起しませうかといふわけなのであらう。世間一般の歌といふものが味もそつけもないつまらない唯事歌となり了つて既に久しい。どうです、少しこんな歌でもも一度はやらせて世直しがして見たいとは思ひませんか。
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日を経ては香に焦げたる色となる初めは白き山梔《くちなし》の花
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之も病床吟であるから、瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した山梔の花を詠じたものである。もし露地の花をよんだものだとするとこれではいけない、何故なら少しも露地の景色があらはれてゐないからである。瓶の山梔を毎日眺めてゐると既に色づいて来て香にこげたやうな色になつたといふので如何にも床上の山梔の花のやつれてゆく様がその儘にあらはれてゐる。やつれながらも尚匂つてゐるのを香にこげたといふ風にいつたのだと解くものがあるかも知れないがさう迄考へなくてもよからう。
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相見んと待つ間も早く今日の来て我のみ物は思ふ衰へ
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由来純抒情詩のカテゴリイに属する作にはむづかしくて意味の分りにくいのが少くないが、特にこの作者のにはそれが多い。中には女でなければ分らないのもあるし、分つたやうで分らないのもある。この歌などもどうもよく分らない。再会を約した日が今日となつてしまつたがこの私の衰へ様は如何だ、それはこちら許りが物思ひにふけつた為である。さうとも知らずにこのやつれた様を何と思ふだらうといふ様に私は解くが果して如何いふものか。
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経文を伝法院に学ばんと貞子の語り蟋蟀の鳴く
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由来家常茶飯事を歌によんで立派な歌にしたてたこと作者のやうな人は先づなかつた。この歌などもさうだ。貞子とは多分今赤須貞子となつた元の圓城寺さんのことだらうと思ふが、貞子さんは病中最も多く病床に侍した人の一人である。その貞子さんが話の序に或は伝法院の表に観音経読誦会の立札か何か立つてゐた話をして私も出て見ませうかしら位のことをいつたのではないか。それをしかし一寸面白いことだと聞手は思ふ。蟋蟀がしきりに鳴いてゐる。先づこんな風にとかれるが淡々として何ともいへない面白味が感ぜられる。それは私一人の感に止るであらうか。
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里住の春雨降れば傘さして君とわが植う海棠の苗
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渋谷時代の作。「海棠の苗」とは盆栽にする様な小さい木
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