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更科の木も目あるごと恐れつつ露天湯にあり拙き役者
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上山田の温泉には露天湯があると見え、作者も物好きにそれに浸つて見た。入つては見たがそこら辺の木さへが目を持つて居て裸の私を見てゐるやうで恥しい、拙い役者が舞台の上でおどおどしてゐるやうな恰好は自分でもをかしい。木に目があるといひ、拙い役者といひ、短い詩形を活かすに有効な手段をいくらでも持ち合せて居る作者にはただ驚歎の外はない。露天湯の歌をも一つ。 我があるは上の山田の露天の湯五里が峰より雲吹きて寄る
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日輪に礼拝したる獅子王の威とぞたたえんうら若き君
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前の若き日のやむごとなさの王城を生物であらはすと獅子王の威光となる。この辺の若い歌何れも晶子調が見事に完成した明治三十七年以降のもので、その内容も当時国の興りつつあつた盛な気分や情操を盛るもの多く、今日から振り返つて見ると洵に明治聖代の作であるといふ感が深い。単に調子だけでも二度とこんな歌は出来まい。
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干杏《ほしあんず》干胡桃をば置く店の四尺の棚を秋風の吹く
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昔の東京なら駄菓子屋といふやうなものであらう。干杏干胡桃何れも山の信濃の名産、それを並べた店の四尺程のけちな棚を天下の秋風が吹く光景である。之は単なる写生の歌ではない、秋風が吹くといふ所に作者が強くあらはれて抒情詩の一体を成すのである。
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我と燃え情火環に身を捲きぬ心はいづら行へ知らずも
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我と我が自ら燃やした情火ながら全身がそれに包まれてしまつた。さて心王は一体どこへ行つたのだらう、行へが分らない。これも我が民族の持つ最上級の抒情詩の一つで既にクラシツクになつてしまつた。私達は唯口誦することによつて心の糧とするばかりである。
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更科の夜明けて二百二十日なり千曲の岸に小鳥よろめく
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前夜は出でて心ゆくまで姥捨の月を賞したのに、その夜が明けて今日は二百二十日だ。而して急に野分だつた風が吹き出し千曲川の岸では風の中で小鳥のよろめくのが見える。この歌ではよろめくが字眼でそれが一首を活かしてゐるのであるが、更科の夜明けての一句も大した値打ちを持ち、この一句で環境が明亮になるのである。
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家七間霧にみな貸す初秋を山の素湯《さゆ》めで来しやまろうど
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赤城山巓大沼のほとりにその昔一軒の山の宿があつた。東京の暑気に堪へぬ高村光太郎君が夏中好んで滞在してゐた。そこへ一夏同君を尋ねて寛先生、三宅克巳、石井柏亭両画伯などと御一しよに私も行つたことがある。作者はこの時は御留守居であつたが、私達が吹聴したその風光にあこがれてその後子達を連れて登られ、途中雷雨の為にひどい目に会はれたことがある。そのために赤城の風光は一時御機嫌にふれてひどい嘲罵に会ひ、先に行つた私達のでたらめであつたと言はれたことを覚えて居る。しかしこの歌を読むとやはり当時のあの赤城の宿らしい感じがする。客など殆どなくその代りに霧が来て室を占領し、肴は山のものと大沼の魚だけである。それを山の素湯といひ、こんな所へよくいらつしやいましたといふわけである。
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我が為に時皆非なり旅すればまして悲しき涙流るる
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これは上山田への途上千が滝のグリインホテルに泊つた時の作で、当時の心持がよく窺へる歌だ。家に居れば淋しさに堪へられない、そこで友を誘つて旅に出たが、旅に出て見れば家に居るにまして一草一木往時の思ひ出のしみないものもなく涙ばかり出て来る。それを一句に時皆非なりと簡潔に表現したのである。又その時の歌に わが友と浅間の坂に行き逢ふも恋しき秋に似たることかな といふのもある。
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花草の満地に白と紫の陣立てゝこし秋の風かな
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前の白百合の白き畑の場合と同じく色彩の音楽で、前のは初夏、之は仲秋の高原の心持であらう。それを旗さしものの風に靡く軍陣によそへて画面に印した迄である。
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蜜柑の木|門《かど》をおほへる小菴を悲しむ家に友与へんや
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相州吉浜の真珠荘は作者の最も親しい友人の一人有賀精君の本拠で、伊豆の吉田の抛書山荘と共に何囘となく行かれ、ここでも沢山の歌がよまれてゐる。今そこには大島を望んで先生夫妻の歌碑が立つてゐる。その蜜柑山に海を見る貸別荘が数棟建つてゐる。その一つを悲しむ為の家として私に貸しませんかと戯れた歌である。悲しむ家といふ表現に注意されたい。こんな一つの造句でも凡
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