手のよく造り得る所ではない。

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二十六きのふを明日と呼びかへん願ひはあれど今日も琴弾く
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 過去、現在、未来を比べ、今年は私も二十六だ、過ぎ去つた若い日を未来に返し、も一度あの頃の情熱に浸りたい願ひはあるが、それもならず今日も一日琴を弾いて静かに暮してしまつた。作者二十六歳の作で実感だらう。

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集りて鳴く蝉の声沸騰す草うらがれん初めなれども
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 これも吉浜での作。油蝉の大集団であらうが、蝉声沸騰すとは抒し得て余蘊がない。しかしこの盛な蝉の声も実は草枯れる秋の季節の訪れを立証する外の何物でもないといふので、一寸無常観を見せた歌である。

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萠野ゆきむらさき野ゆく行人《かうじん》に霰降るなりきさらぎの春
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 これも言葉の音楽で別に意味はない、初めの二句はいふまでもなく額田の女王の歌茜さす紫野行き標野行きの句から出て居るのであるが、その古い日本語の音楽を今様に編曲して元に優るとも劣らないメロヂイを醸成してゐること洵にいみじき極みといふべきだらう。

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わが踏みて昨日を思ふ足柄の仙石原の草の葉の露
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 [#全角アキは底本ではなし]仙石原は函根の中でも作者夫妻の最も親しんだ所でその度に無数の歌が詠まれてゐる。これは朝露を踏みながらそれらを囘顧する洵に玉のやうな歌である。又 黄の萱の満地に伏して雪飛びき奥足柄にありし古事 といふ歌もこの時作られてゐるが之は昔私も御一しよに蘆の湖へ行く途上に出会つた雪しぐれの一情景を囘顧したものである。

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春雨やわが落髪を巣に編みてそだちし雛の鶯の啼く
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 春雨が降つてゐる、鶯が鳴いてゐる。この鶯こそ私の若い落髪を集めてこしらへてやつた巣の中でやしなはれた雛の育つたもので、いはゞ私の鶯だ。といふのであるが、少女の空想のゑがき出したものであつて差支ない。

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吹く風に沙羅早く落つ久しくも我は冷たき世に住めるかな
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 沙羅の花は脆いと聞くが、今日仙石に咲くこの花も風が吹く度に目の前で落ちる。落ちて冷い地上に敷く心地はその儘私の心地に通ふ。思へば私としたことが長い間冷たい世の中に住んでゐたものである。この様な感覚の共鳴によつて情と景との結ばれる例は余人の余り試みず、独り晶子歌に多く見られる処である。

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遠つあふみ大河流るる国半ば菜の花咲きぬ富士をあなたに
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 大河は天竜で作者が親しく汽車から見た遠州の大きな景色を詠出したものである。あの頃はまだ春は菜の花が一面に咲いてゐた、その黄一色に塗りつぶされた世界をあらはす為に大河流るるといひ国半ばといふ強い表現法を用ゐたのである。世の中にはをかしいこともあるもので、誰であつたか忘れたが、その昔この歌を取り上げて歌はかう詠むものだといつて直した男があつた。自己の愚と劣とを臆面もなくさらけ出して天才を批判したその勇気には実際感心させられた。日本人に斯ういふ勇気があつたればこそ満洲事変も起り大東亜戦争も起つたのであらう。雀が鳥の飛び方を知らないと凰を笑ふやうなものだ。

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我もまた家思ふ時川下へ河鹿の声の動き行くかな
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 十二年の夏多摩の上流小河内に遊んだ時の作。河鹿が盛に啼いたものらしい、その河鹿の声が川下の方へ移つてゆく、丁度その時私もまた遥か川下の家のことを思ひ出してゐた。同じ時の河鹿の歌に 風の音水の響も暁の河鹿に帰して夏寒きかな といふこれもすばらしい一首がある。河鹿に帰するとは何といふ旨い言廻しだらう。万法帰一から脱体したものであらうが唯恐れ入る外はない。

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高き家《や》に君とのぼれば春の国河遠白し朝の鐘鳴る
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 これも亦日本語の構成する音楽。森々たる春の朝の感覚に鐘の声さへ加はつて気の遠くなるやうなリトムの波打つてゐる歌である。

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荷を負ひて旅|商人《あきびと》の朝立ちしわが隣室も埋むる嵐気
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 これも小河内の夏の朝の光景である。川から吹き上げる嵐気が室にあふれる。この室ばかりではない。昨夜旅商人の宿つて今朝早く立つていつた小さい隣の室にさへあふれる。旅商人を点出して場合を特殊化した所にこの歌の面目は存し、それが深刻な印象を読者の心に刻むのである。この時の歌にはまた 渓間なる人|山女魚《やまめ》汲み行く方に天目山の靡く道かな などいふのもある。

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すぐれて恋
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