ないから慎重を期したい。
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稲の穂の千田《ちた》階《きざ》をなし靡く時唯ならぬかな姥捨の秋
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山の上まで段々に田が重つてゐてそこへ秋風が吹いて来て稲の穂が縦にさへ一せいに靡く不思議な光景を唯ならぬの一句に抒した測り知れないその老獪さは如何だ。しかし同じ景色も之を平抒すれば 風吹きて一天曇り更科の山田の稲穂青き秋かな となる。
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思ふとやすまじきものの物懲《ものごり》に乱れはててし髪にやはあらぬ
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これもむつかしくてほんとうは私には分らないが、代表歌の一つだから敬遠するわけにも行かず、強いて解釈する。すまじきものの物懲りとは勿論人を恋することで、恋などすべきでないことをした為お前の髪も心もすつかり乱れてしまつたではないか。そのお前が懲りずまにまた人を思ふといふのかと自分に言つてきかせる歌のやうにもとれるが、ほんとうは人称がないので私には見当がつかない。
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寺の僧|当山《たうざん》のなど云ひ出づれ秋風のごと住み給へかし
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姥捨の長楽寺での作。寺を正抒しては 秋風が稲田の階を登りくる姥捨山の長楽寺かな となるのであるが、それだけでは情景があらはれない。そこでこの歌となる。姥捨山は姥捨の伝説をもつ月の名所であるから坊さん得意になつて縁起か何かまくし立てようとするのを聞きもあえず一喝を食はせた形である。歌人だから風流に秋風のやうに住菴なさいといふだけで、折角の名所に住みながらそれでは台なしですよとは言はない。この歌に似た趣きのものが、嘗て上林温泉に遊ばれた時のにもある。曰く 上林み寺の禅尼放胆に物はいへども知らず山の名 僧尼をからかふ気持は昔からあるが元来笑談のすきな晶子さんにこの種の作のあることもとよりその所である。彫刻師凡骨などのお伴をした時は、その度によくからかはれたもので蜀山流の狂歌が口を突いて出た、それを皆で笑つたものだ。
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白百合の白き畑の上渡る青鷺連《あをさぎづれ》のをかしき夕
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日常生活を一歩も出ない常識歌を作つて、それが詩でも何でもない唯言であることを忘れてゐる或は初めから御存知ない連中が斯ういふ作を見たら何といふだらう。作者の製造した景色で実景でないからそんなものは価値がない、また技巧も旨過ぎるなどといふかも知れない。しかしそんな批判はこの歌の値打を少しも減らさない。ゴエテに「詩と真実」といふ表題の本があるが、それでも分る通り、詩は真実ではないのであつて、絵そらごとといふ言葉のある様に虚の一現象である。写生が作詩の一方法であつて、この方法を取つてよい詩の生れることのあるのは否定できないが、あくまで一方法であつて全部ではない。詩は事実ではない。作者の精神の反映である。実の反映も虚であり、虚の反映はもとより虚である。美は虚であり詩は虚である。この詩は作者の空想にあらはれた美が結実し言葉に表現されたもので、丁度作曲家の脳裏に浮んだ美が形を為し音楽として五線譜上にあらはれるのと同じわけである。詩は言葉の音楽であり、音楽は音波のゑがく詩であり、等しく詩人の心の表現でその本質は同じものである。又モネの画面などは絵具で之を試みたものだ。この歌などは色彩の音楽を言葉で表現したものでそれ以上詮索は無用である。しかし強ひて試みれば和蘭陀のある地方又は輸出百合を栽培する地方などにはこんな畑もないことはあるまい。
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更科の田毎の月も生死《いきしに》の理も瞬間に時移るため
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生死の理こそこの年頃作者の脳裏にこびりついて放れなかつたものの第一であらう。その作者に縁あつて姥捨の月を賞する日が廻つて来て、一夕田毎の月の実況を見た。しかし作者の場合には、その美に打たれる代りに、わが抱懐する哲学理念に比べて之を観察してしまつた。現在が次の瞬間に過去になる。生は現在、死は過去である。月が動き時が移る、その度に月影は一枚の田から次の田に移る、それが田毎の月で、前の田の月は死に、次の田の月が生れる。生死は二にして一、同じものの時を異にしてあらはれるものに過ぎない。さう作者は感じたのである。之を読むと作者は仏教哲学をもよく咀嚼してゐるやうである。
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若き日のやむごとなさは王城のごとしと知りぬ流離の国に
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これも言葉の音楽の一つ。故あつてさすらひ人となつた現在を以て、若き日を囘顧すればそれば王城の様に尊貴な時であつたといふので、それだけのものであるが、わが民族の持つ言葉の音楽としてやがてクラシツクとなるであらう。さうして神楽や催馬楽の場合に亜がう。
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