てゐる。

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男をば謀ると云ふに近き恋それにも我は死なんとぞ思ふ
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 わたしといふ女はまあ何といふ女であらう。男をはかる位の軽い気持ではじまつたこの度の恋でさへ今私は死ぬほどの思ひをしてゐるとわが多情多恨を歎くのであるが、之も王朝のことにしないと味が出て来ない。

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旅の荷に柏峠の塵積り心に古き夢の重なる
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 柏峠は伊東から大仁へ越える峠で作者が、良人と共にいく度か通つた所である。見ると旅の鞄にほこりが厚くついて居る、柏峠のほこりだ。その様に私の心は往日の思ひ出で一杯だといふ情景を相応せしむる手法の一例である。この行それから湯が島に行かれたが、その道で 大仁の金山を過ぎ嵯峨沢の橋を越ゆれば伊豆寒くなる と詠まれ、又著いては 湯が島の落合の橋勢子の橋見ても越えてもうら悲しけれ と詠まれてゐる。

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手に触れし寝くたれ髪を我思ひ居れば蓬に白き露置く
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 家に帰れば夏の夜は早く明け、蓬には白玉の露が置く。手の先には寝くたれ髪の感覚がそのまま残つて居て、我は呆然として女を思ふ、白露の玉を見ながらといふこれも平安期の情景の一つ。

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ほのじろくお会式桜枝に咲き時雨降るなる三島宿かな
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 [#全角アキは底本ではなし]御会式桜とは池上の御会式の頃即ち柿の実の熟する頃に返り咲く種類の桜のことでもあらうか。旅の帰りに三島明神のほとりを通ると葉の落ちた枝に御会式桜が返り咲いてゐて珍しい、そこへ時雨が降り出した。それは富士の雪溶の水の美しく流れる三島宿に相応はしい光景である。この歌の調子の中にはさういふ心持も響いてゐる。

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輦《てぐるま》の宣旨これらの世の人の羨むものを我も羨む
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 手車に乗つて宮中へ出入することを許す宣旨であるから高い位の意味で、世人の羨む高い位を私も羨む。私は美しいからそれだけでよささうなものだが、手車で宮中へはいれる様な身分ならばとそれも羨しくないことはない。その位な想像をしてこの歌を読むもよからう。

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川の洲の焚火に焦げて蓬より火の子の立てる秋の夕暮
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 十二年の仲秋信濃の上山田温泉に遊んだ時の作。所謂写生の歌であるが、作者はこの歌に於て、尋常でない副景を描いて目に見えるやうに自然を切り取り、その上で之を秋の夕暮といふ枠の中へ収めて一個の芸術に仕上げてゐる。千曲川の川原蓬が焚火の火に焦げてそれが火の子になつて飛び出す秋の夕の光景、それをその儘抒しただけであるが、直ちに人心に訴へる力を備へ正に尋常の写生ではない。

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※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]頭《かざ》したる牡丹火となり海燃えぬ思ひ乱るる人の子の夢
[#ここで字下げ終わり]

 誰かあれ、欧洲語に熟した人があつたら試みにこの歌を訳して見たらと私は思ふ。或は既に訳されて居るかも知れない。この頃の晶子歌は相当訳されてゐて世界の読詩家を魅了したものであるから。この歌などはその内容だけで欧洲人は感心するだらうのに、日本人にはその言葉の持つ音楽さへ味はへるのだから喜びは重るわけだ。どうかその積りで味はつて頂きたい。敗残の我が民族もこんな詩を持つてゐるのだと世界に誇示して見たい。思ひ乱れるわが夢を形であらはさうか、それは髪にかざした牡丹が火になりそれが海に落ちて海が燃える、君看ずや人の心の海の火の、燃えさかる紫の炎を、それが私の夢の形だ。まづく翻訳するとこんな風にもならうか。

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白波を指弾くほど上げながら秋風に行く千曲川かな
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 晶子さんほど繊細で微妙な感覚の琴線を持つ人を私は知らない。欧洲の詩人の詩にはいくらもありさうであるが、わが国の少くも歌人の間には断じて第二人を知らない。千曲川を秋風が撫でて白波を立ててゐる。その白波の高さを指で弾くほどと規定して事象に具体性を与へ得るのは全く霊妙な直覚力によるもので、感覚の鋭敏な詩人に限つて許されることだ。

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転寝の夢路に人の逢ひにこし蓮歩のあとを思ふ雨かな
[#ここで字下げ終わり]

 とてもむつかしい歌で私にはよく分らないが、こんな風にとけるかもしれない。糸のやうな春雨が降つてゐる。静かにそれを見てゐるとこんな風な幻像が浮ぶ。男のうたたねの夢の中へ麗人が逢ひにゆく。その互ひ違ひにやさしく軽く運ばれる足跡が宙に残る。それが雨になつて降る。他の解があれば教へを受けたい。第五集「舞姫」の巻頭の歌で、作者も自信のある作に違ひ
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