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源氏の紫の上などを思つて読まれたものではなからうか。近世の読経は陰気くさくもあり、宗旨の匂ひが紛々として鼻をつくが、平安朝のそれは全く感じが違ひ、著しく音楽的に響いたものの様で、されば艶にとあらはされ、心よくなめらかに響いてくる読経の声を聞くなど君の帰らぬ夜もまたをかしといふ心であらうか。また おこなひに後夜起《ごやおき》すなる大徳のしはぶく頃に来給ふものか といふ歌なども同じ姫君の上であらう。 春の宵君来ませよと心皆集めて念ず小柱のもと これは少し違つて花散る里といつたやうな人の歌かもしれない、かういふ歌をよむと、明治三十七八年頃渋谷の御宅で先生の源氏の講義を聞いてゐる学校の生徒達を思ひ出す。私もその一人であつた。夫人は赤ちやんを抱いてわきから助言された。その頃も斯ういふ種類の歌が盛に作られたやうである。
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大島が雪積み伊豆に霰降り涙の氷る未曾有の天気
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作者には 大昔夏に雪降る日記など読みて都を楽しめり我 といふ歌があり、日記は吾妻鏡を斥すのであらうが、季節はづれの天候を短い歌の中でこなすことは極めて難しいわざで先づ成功は望めない。平生暖かい筈の伊豆に一日寒波が襲来し、椿の大島に雪が積り、伊豆山には霰が降り故人を偲ぶわが涙は為に凍ると遠きより近きに及びその光景を抒しつつ未曾有の天気と結んだ手際のあざやかさ、洵に見事なものである。
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捨て書きす恋し恨めし憂し辛し命死ぬべしまた見ざるべし
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これも紫の上のやうな若い人の歌で、たとへば草紙に手習ひをしてゐる様子を戯れて詠じたものと見てもよからう。底をついた表現とでもいひたいやうな歌ひぶりが面白い。
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戸立つれば波は疲れし音となるささねば烈《はげ》し我を裂くほど
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十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は波が高い。余り音がひどいので硝子戸を立てて見ると急に音が弱つてまるで人なら疲れたもののやうに聞こえる。それも少しさびしいので、また明けると、まるで私を引き裂く様な勢でとび込んでくるといふわけである。この時の歌には 櫨紅葉燃殻のごと残りたる上に富士ある磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の水神の橋 などが数へられる。
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麗色の二なきを譏りおん位高きを嘲《あざ》み頼みける才
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源氏の恋人達の中には一寸見当らない。清少納言は恋愛の対象として如何か。栄花の中の藤氏の実在人物にはあるかも知れない。或は作者自らもし平安時代にあつたら斯う歌ふであらうとも思はれる。私はあの人の様な美人ではない、あの人のやうに位も高くはない。しかし私にはあの人達の持つてゐない才がある。容色と位と才と男はどれを取るだらう、といふのである。作者に才を頼む心があつたので興が深い。
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そこばくの山の紅葉を拾ひ来て心の内に若き日帰る
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十二年の秋の盛りに日光に遊ばれ、中禅寺湖畔に宿つた時の歌。この時は紅葉の歌が沢山出来てゐる。 水色の橡の紅葉に滝の名を与へまほしくなれる渓かな 掻き分けて橡の葉拾ふ奥山の紅葉の中に聖者もありと といふ様に色々の紅葉、その中には聖者のやうな橡紅葉もあつて、それを持ち帰つて並べて見ると雛でも飾るやうで久しく忘られた若い心が帰つて来た。
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牡丹散る日も夜も琴を掻き鳴らし遊ぶ我世の果つる如くに
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牡丹散るとそこで切つて読むのである。またしまひは遊ぶ我が世と続くのであらう。咲き誇つた牡丹の花も遂に散つた、それを見た美女が私達は日夜管絃の遊びにふけつてゐるが其の終りもこんな風なのであらうと忽ち無常観に打たれた処であらう。
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男体の秋それに似ぬ臙脂《えんじ》虎と云ふものありや無しや知らねど
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紅葉の真盛りの男体山を真向正面から抒して、まるで臙脂色の虎――もしそんなものがゐたら――赤い斑の虎のやうだといつたのである。しかし臙脂虎とは紅をつけた虎の意味で悍婦を斥すと辞書にある。従つてありやなしや知らねどといふ言葉の裏には悍婦の意も自ら含まれてゐるのであらう。又同じ時同じ山を詠んだ歌に 歌舞伎座の菊畑などあるやうに秋山映る湖の底 わが閨に水明りのみ射し入れど全面朱なり男体の山 などがあり、又戦場が原に遊んでは 宿墨をもて立枯の木をかける外は白けし戦場が原 さるをがせなどいふ苔の房垂れて冷気加はる林間の秋 といふ様なすばらしい歌もこの時出来
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