あるから知つてゐる。自分達の前には東海が広がつてゐることを知つてゐる。しかし低い処を突進してゆく川には目がない。行く先に東海があらうなどとは夢にも知らずに流れてゆく。先づこんな感じがしたのであらうか。成るほどと教へられる。又同じ時の歌に 梅の実の黄に落ち散りて沙半ば乾ける庭の夕明りかな 山の湯が草の葉色を湛へしに浸る朝《あした》も物をこそ思へ などがある。
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往き返り八幡筋の鏡屋の鏡に帯を映す子なりし
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あああの頃は罪が無かつたと嘆息をさへ伴ふ少女の日の囘顧であらう。更に幼い頃を囘顧したのに 絵草紙を水に浮けんと橋に泣く疳高き子は我なりしかな といふのがあるが、前に比べるとこの方ばずつと余音に乏しいやうだ。
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月落ちてのち春の夜を侮るにあらねど窓を山風に閉づ
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之も伊豆の吉田の大池の畔でよんだ作。月も這入つた様だし風が寒くなつたので窓を閉めるのであるが、月が落ちたからとて春の夜を侮るわけではありません、山風が出て寒いからですといひわけをせずには居られぬ心、それが詩人の心である。
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岡崎の大極殿の屋根渡る朝烏見て茄子を摘む家
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これは晶子さんには珍しい写生の歌で、春泥集にある。勿論作者の本領ではないが、何でも出来ることを一寸示した迄の作であらう。しかしその正確さは如何だ、時計の針が時を指すにも似て居る。
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梅花の日清和源氏の白旗を立てざるも無き鎌倉府かな
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故寛先生の三囘忌を円覚寺で営んだ時の作(二月二十六日)。[#「。」は底本では欠落]梅の真盛りの時節であつた。先生は梅を好むこと己れの如く、その嘗て使はれた筆名鐵幹[#「鐵幹」は底本では「錢幹」]も梅を意味し、又その誕生日はいつも梅の花で祝はれた。 我が梅の盛りめでたし草紙なる二条の院の紅梅のごと といふ如きもので、これは六十の賀が東京会館で催された時の作の一つである。即ち梅花の日は即ち夫の日といふほどの意味で忌日を斥し、その日鎌倉を行くに梅咲かぬ家とてない光景を源氏の白旗を立てざるなしと鎌倉らしく抒した手際など全く恐れ入らざるを得ないが、結びの鎌倉府の府の字の如きも之を使ひこなし得る人もう一人あらうとも思はれない。また同じ景色を詠じて 天地にものの変《へん》などありしごと梅連りて咲ける鎌倉 とも又 鎌倉の梅の中道|腰輿《えうよ》など許されたらばをかしからまし ともある。お寺では 梅咲く日羅浮の仙女となりて入る万法帰源院の門かな 梅散るや放生会など行はゞをかしかるべき大寺の池 などの作がある。同夜は海浜ホテルに泊られ 鎌倉の梅の中より鐘起る春の夕となりにけるかな の作が残されてゐる。
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白牡丹咲かば夜遊の淵酔に君を見んとす春闌けよかし
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晶子さんの若い頃の歌は、その取材の上から大別して三つになる。一つは幼時から見聞した京畿の風物を囘顧するもの、京の舞姫に関するものも便宜この中に入れて置く。一つは源氏、栄花等にあらはれてゐる平安朝の生活を自らその中の人物となり、又は三者の立場に立つて詠じたもの。第三はその他であるが、その第二は晶子さん独特の境地で、そこへは当時一しよに作歌に精進した才人達誰もついて行かなかつたし又行けもしなかつた。私は前記秀歌選を作るに当つてこの種の歌らしいものを拾つて仮に源氏振といふ一項を起して見た。鑑賞上その方が便宜が多からうと思つたからで、外に大した意味はない。この歌などがその一例、牡丹が咲いたらそれを機会に夜宴が開かれよう、その時こそ君の御姿が見られよう、春が闌けて早く牡丹の咲く頃にならないかなといふ藤氏の女あたりの心持を詠んだものと察せられる。淵酔は宴会の意味。
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山の月雪を照して我が友が四人に分つ振り出し薬
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十二年の二月同行四人で箱根早雲山の大雄山別院に泊して珍しい一夜を明かされた時の作。友の一人が少し風気で携行した葛根湯か何か煎じてゐたが、山上の寒さの身にしむ宵とて皆に分けて飲ませる光景、外の山には雪が積つてゐてその上を弦月が照らしてるといふわけである。又その時の作には 山寺は雲に満ちたる二月にて鉛の色す夕暮の庭 雪白き早雲山の頂きに近くゐて聞く夕風の音 などがあり、その帰途十国峠を過ぎては 峠路の六里の間青海を見て枯草の世界を伝ふ といひ、熱海から多賀へ出て一泊されては 海に向き材木積める空地のみ僅に白き夕月夜かな の歌を残しこの行は終る。
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み侍み経を艶に読む夜などをかしかりける一人臥しかな
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