。大阪を流れる春の水の心持は流沙へ流れ込む水のそれに似てゐるやうに私は思ふといふわけなのであらう。天竺といひ流沙といふ処に仏典とその伝統を匂はせ歌にゆかしさと奥行を与へて居ること、全く作者の教養に本づくもので、作者が常にお弟子さん達に広く修養をすすめて居る理由もここに存するのである。水の縦横に流れる大阪の生態は作者の喜ぶものの一つであつたと見え、晩年こんな作もある。 清きにも由らず濁れることにまた由らず恋しき大阪の水 

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秋風や一茶の後の小林の田代の彌太に購へる鎌
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 私は杜甫など読んだこともないが、詩を作るなら人を驚かす様なものを作れといつてゐるさうである。流石に杜甫はえらいと思ふ。こんな広言の吐ける詩人は古今東西幾人も居まい。その一人に日本にも一茶がゐる。作者は若い時蕪村を学ばれ直接大きな影響を受けて居られたが、一茶からのそれは環境が違ふので大して認められない。併し可なり重く見られてゐたのではなからうか。この歌などもその証拠の一つで柏原に一茶の跡を尋ねられた時の作。又同じ時 火の事のありて古りたる衣著け一茶の住みし土倉の秋 とも作られてゐる。

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お縫物薬研の響き打ち続く軒下通ひ道修町行く
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 大阪に道修《どしよう》町といふ薬屋許りの町がある。この間夫君と時を同じくしてなくなられた茅野雅子さんのお里増田氏などもその一軒であつた。今の事は知らないが、昔は恐ろしく狭い町だつた。「お縫ひもの」とは多分さういふ看板の文字で、今なら和服仕立とある所だらうか。その薬屋の間にこんな看板のかかつた家も多かつたのであらう。軒下通ひとは両側から軒がつき出してゐたのでもあらう。所謂明治の good old time を偲ばせる。風俗歌としてまことに面白い歌だ。

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妙高の白樺林|木高《こだか》くもなるとは知らで君眠るらん
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 妙高は良人と共に幾度か遊んだ処であるから感懐も深いものがあつたらう、白樺林の大きくなつたことは如何だ。それとも知らず君は武蔵野の地下深きこと八尺の臥床に今なほ眠つてゐるといふので、一人になつて初めて池の平に泊つた時の作である。又この時の歌に 山荘の篝は二つ妙高の左の肩に金星とまる 斑尾は浮き漂へるものと見え心もとなき月明りかな などがある。

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皷打ち春の女の装ひと一人して負ふ百斤の帯
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 日本の女の帯の美々しさを、その最も典型的な京の芸子の皷を打つ春著姿にかりて詩化したもの。[#「。」は底本では「、」]「百斤」とは男子一人の重さで、又その荷なひうる最大の重さでもある、即ち人を驚かずに足る表現法がここにも用ゐられて効果を挙げてゐる。百斤を用ひた他の例に 百斤の桜の花の溜りたる伊豆のホテルの車寄せかな といふのがある。熱海ホテルでの歌である。

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村上の千草《ちぐさ》の台の秋風を君あらしめて聞くよしもがな
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 十二年の秋新鹿沢に遊んだ時の作。村上の千草の台とはその名が余りに美しいので、或は作者の命名かも知れない。高原の秋風のすばらしさを故人をかりて述べたもので、この歌には追懐の淋しさなどは少しも見られない。

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仁和寺の築地のもとの青蓬生ふやと君の問ひ給ふかな
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 この歌も京情調を歌ふクラシツクの一つ。天才の口から流れ出た日本語の音楽である。

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涼しくも黒と白とに装へる大船のある朝ぼらけかな
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 十二年の夏伊豆の下田での作。夏の朝早くまた日の昇らぬ港の涼しい爽やかな光景を折から碇泊してゐた白と黒との段々染の様な大船を中心にして描出したものである。涼しくもとあるので夏である事が分るやうになつてゐる。同じ時の作に 安政の松陰も乗せ船の笛出づとて鳴らばめでたかるべし ありし日の蓮台寺まで帰る身となりて下田を行くよしもがな などがある。

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秋まつり鬱金《うこん》の帯し螺《ら》を鳴らし信田の森を練るは誰が子ぞ
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 一分の隙もない渾然として玉の様な歌であるが、なほ古い御手本がなくはない。 白銀の目貫の太刀を下げ佩きて奈良の都を練るは誰が子ぞ といふ歌がそれであるが、換骨脱胎もこれ位に出来れば一人前である。

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東海を前にしたりと山は知り未ださとらず藤木川行く
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 相州湯ヶ原滞在中の作。折からの五月雨で藤木川の水嵩がまし水勢も強い。それを見てゐると自分の行く先を知るものの様には思へない。然しうしろの山々は目が
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