ゐる処が面白い。

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湯本なる石の館《やかた》の二階より見ゆやと覗く哈爾賓の雪
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 早春函根の湯本での作。石の館とあるので川に臨んだ福住の二階らしい。春といふのに雪が降り出して夜の間に大分積つた。まるで哈爾賓辺の話の様である。湯本の福住の二階から哈爾賓の雪が見えるかどうか一つ覗いて見ませうといふ程の心であらうか。突如として哈爾賓の出て来た所が頗る面白い。併し哈爾賓は作者曾有の地であるからそれほど突飛な話ではないかも知れない。

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み目覚めの鐘は智恩院聖護院出でて見給まへ紫の水
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 本によつては聖護院が方広寺になつてゐる。五条辺に聞こえるものとしてはその方がよい理由でもあつての変更かと思ふが、地理的事実など何あらうと詩は詩であつて、事実ではないのであるから私はどこ迄も聖護院にして置きたい。聖護院でなければ調子が出ない。この歌の眼目は鴨川に臨む青楼らしい家の春の朝の情調を伝へるにある。その為には、歌のもつ音楽面が可なり大切である。方広寺では音楽がこはれてしまふ。この歌の持つメロヂイとリトムとを味はふ為には読者は必ず高声に朗誦しなければいけない。この場合にも私はさう云ひ度い。

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箱根風朝寒しとはなけれども生薑の味す川より吹くは
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 之も哈爾賓の雪と同じ時の作で、やはり早川に臨んだ福住の二階座敷の歌である。朝になつて硝子障子をあけると川から風が吹き込む。それは箱根風で寒いとは思はないが、生薑の味がする。といふのはやはり少しは寒い意味であらう。これも哈爾賓の雪と同じでその突飛な表現に生命が宿つてゐるともいへる。

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春の月雲簾して暗き時傘を思ひぬ三条の橋
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 三条の大橋を半ば渡つた時俄に黒い雲が来て簾でもおろしたやうに春の月をかくして暗くなつてしまつた。雨が落ちねばよいが、傘を持つてくればよかつたと思ふ。思ふものは無論作者のすきな蘇小なのであらう。雲すだれするとは面白いいひ方である。

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黒潮《くろしほ》を越えて式根の島にあり近づき難し幽明の線
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 十二年頃の事だらうと思ふが近江さん達と伊豆七島の幾つかを廻られたことがある。世の中がまだ静かだつた頃とは云ひながら、中々思ひきつた企てでもあつた。流石に沢山の御土産がもたらされた。之もその一つ。黒潮を越えて遠くこんな所までも来たが、なほ幽明の境の線は遠くして遠い。逢ふ由のない悲しみが言外に強く響いてゐる。式根島には海岸の岩礁の間に湯が湧いてゐて島人はそれに這入る。その湯の興味が多数詠まれてゐるので二三つ紹介すると 紫の潮と式根の島の湯を葦垣へだて秋風ぞ吹く 式根の湯|海気《かいき》封じておのづから浦島の子の心地こそすれ 秋風が岩湯を吹けど他国者窺ふほどは海女《あま》驚かず 硫黄の香立てゝ湯の涌き青潮の入りて岩間に渦巻を描《か》く 地奈多の湯海に鄰れど人の世に近き処と思はずに浴ぶ 海女《あま》少女《をとめ》海馬《かいば》めかしき若人も足附の湯に月仰ぐらん 唯二人岩湯通ひの若者の過ぎたる後の浜の夜の月 などがある。又他国者の珍しさが 沙に居て浅草者の宿男島に逃れて来しわけを述ぶ などとも歌はれ居り、又船の歌には 夜の船の乾魚の荷の片蔭にあれどいみじき月射してきぬ といふのもあり、兎に角この島廻りは一寸風変りなものだつたらしい。

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十五|来《き》ぬ鴛鴦の雄鳥の羽の如き髪に結ばれ我は袖振る
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 男の元服に相当する様な風俗でもあつたものらしく、十五になつたので鴛鴦鳥を思はせる様な髪をゆはせられた、さて鏡に向つて自分もいよいよ一人前の女になつたのかと喜び勇んだことを思ひ出した歌でもあらうか。まことに素直な歌で気持がよい。

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湖の舟の動きし束の間に我唯今を忘れけるかな
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 野尻湖でよまれた歌であるが、何とでも解釈が出来よう。私は今、舟の動いた拍子に過ぎ去つた日が忽然と帰つて来て現在に変つた趣きに解いて置かうと思ふ。それにしても何といふ旨い歌だらう。一生に一首でよいからこんな歌が作つて見たい。

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天竺の流沙に行くや春の水浪華の街を西す南す
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 昔の大阪、水の大阪、その大阪の春の情調を表現しようといふ試みであらうが、それが見事に成功し、既にクラシツクとして我が民族のもつ宝物の一つになつてゐる歌。いくら晶子さんでもざらに出来る歌でないこと勿論である。天竺の流沙はゴビの沙漠の事であらうが、そこへは沢山の川が流れ込んで消えてしまふ
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