読めば完全に鑑賞出来ようといふものである。さくらびとは造語で舞子達の桜の花簪でもさしてゐるのを戯れたものと見てよからうか。勿論古歌のさくらびととは何の関係もない。

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故ありて云ふに足らざるものとせぬ物聞橋へ散る木の葉かな
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 新々訳源氏物語が完成してその饗宴が上野の精養軒で開かれた。可なりの盛会であつた、その直後に伊香保吟行が行はれ、四五人で千明《ちぎら》に泊つた。私も同行したが、平常は分らなかつた衰へが、不自由勝な旅では表面へ出て来て私の目にもとまつた。前の車中の話の歌が心にしみたのもその故である。作者が初めて伊香保に遊ばれたのは「私の盛りの時代」と自らいはれる大正八年頃の事で沢山歌が出来てゐる。この行は夫妻二人きりのものではなかつたか。この歌をよむとその際であらう。物聞橋の上で何事かあつたらしい。物聞橋は小さいあるかなきかの橋ながら、私にとつては如何でもよい唯の橋ではない。その時は初夏で満山潮の湧くやうであつたが、今は秋やうやく深く木の葉が散つて来る。さうして私は一人になつて衰へてその上に立つてゐる。万感交※[#二の字点、1−2−22]至る趣きが裏にかくれてはゐるが、表は冷静そのもので洵に心にくい限りである。

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春の雨高野の山におん稚児の得度《とくど》の日かや鐘多く鳴る
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 春雨が降つて天地が静かに濡れてゐる。その中に鐘がしきりに鳴つてゐる。この歌のめざす情景はそれだけのものだが、それに具体性を与へて印象を深めるために高野山の得度式を持ち出したわけであらう。音楽的にも相当の効果をあげてゐる。

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心にも山にも雲のはびこりて風の冷たくなりにけるかな
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 前と同じ時榛名湖畔での作。秋も深く湖畔の風が冷い、山には雲が走る、ただに山許りかは、人の心も雲で一杯だ。山上のやるせない秋のさびしさがひしひしと感ぜられる。同じ時の歌に 一つだに昔に変る山のなし寂しき秋はかからずもがな 相馬岳榛名平に別れ去るまた逢ふ日など我思はめや などがある。

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六月の同じ夕《ゆふべ》に簾しぬ娘かしづく絹屋と木屋と
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 町娘鳳晶子でなければ決して作れない珍品である。又それは撫でさすりたい位の見事の出来でもある。絹屋は呉服屋、木屋は材木屋のことだらうと思ふが、或は商号かも知れない。兎に角堺の町の商家に違ひない。互に近所同志で、同じ年頃の娘があつて、何れも美しく大事にかしづかれてゐる。その二軒が夏が来たので戸を払つて簾をおろした。それが相談した様に同じ日でもあつたといふのである。何と珍しい趣向の歌ではないか。いくら褒めても褒め足りない様な気がする。その音楽的効果も亦すばらしい。

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提灯《ちやうちん》に蛍を満し湯に通ふ山少女をば星の見に出づ
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 天城の山口の嵯峨沢の湯に遊んだ時の作。蛍の多い所と見え、土地の娘が提灯に蛍を一杯入れそれを明りにして湯に通ふ光景にぱつたり出合つた作者は感心して呆然と見送つた。空には初秋の星が降る様に光つてゐる。上からこの珍景を見て居るのだらう。

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舞の手を師の褒たりと紺暖簾入りて母見し日も忘れめや
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 少女時代の思ひ出が多数歌はれてゐるその中の一つ。源氏や西鶴に読み耽る以前にこんなあどけない時代もあつたのであらう。しかし遊芸の如きは幾許もなく抛棄せられ独り文学少女が育つて行つたらしい。

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南国の星の大島桜より大きく咲ける春の夜の空
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 之も前記抛書山荘での作。空気の澄んだ天城山麓で見る東海の星は、東京などより大きくも見え色も美しい。それを丁度そこに咲いてゐた花の小さい野生の大嶋桜を引き合ひに出して、染井吉野には及ばないが、大嶋桜よりは星の方が大きい位だといつたので、表現法の最高の標準が示されてゐる歌だ。

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川風に千鳥吹かれてはたはたと打つや蘇小《そせう》が湯殿の障子
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 京の芸子を歌つた歌は無数にあるが、この一首だけその調子が他と違つてゐる。それが珍しいのでここへあげた。晶子さんの歌には、内容からも表現法からも調子からも殆どありとあらゆる体が網羅されてゐて、欠けてゐるものがありとすれば口語体の表現位のものだらう。であるからこの歌にあらはれてゐる様な調子が出て来ても何の不思議もないが、ただ芸子ものだけに少し変なのである。蘇小は校書といふと同じく芸者の支那名で白楽天にある言葉の由、それだけに調子もどことなく漢文調を帯び、甚しく芸者屋らしくなくなつて
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