てこの像を喜ばしめる理由が存するやうに思へるからである。
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人聞きて身に泌むと云ふこと云ひぬ物の弾みはすべてわりなし
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かういふ体験は私にもある。唯それが云ひ現はせなかつただけである。それを作者が代つて云つてくれたのである。要するに物の弾みだ、どれ程多くの行為がもののはずみに行はれ、どれ程多くの言説がもののはづみに人の口から出たことであらう。理窟で分ることではない。
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明日といふよき日を人は夢に見よ今日の値は我のみぞ知る
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作者の現在観は幾度か歌はれてゐるが、真正面から堂々と高調してゐる場合が多い。然るにこの歌では珍しく他を顧みて、我以外のものが皆今日を忘れ期待を明日以後にかけて人生を送つて居るのを見て、そんなことでよいのかと警告を発する趣きが見える。私の少し人より余分に人のなし得ない事をやり了せるのは、今日の値を知つてそれを一杯に使ふからである。
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若き日は安げなきこそをかしけれ銀河の下《もと》に夜を明かすなど
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この歌は大正十年版の第十六集「太陽と薔薇」にあるのだから四十三四歳の作である。子女の一人も未だ成人せず、文化学院も出来てゐない時とて、親として又教育家として青年子女に対する必要のなかつた頃であるから極く楽な気持で詠まれて居る。末の弟の夜遊びを喜んで傍観する姉の態度で、何物をか求めてやまない青年の不安な心持にもよい理解が示されてゐる。
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雷の生るゝ熱き湯の音をかたへにしたる朝の黒髪
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大正八年頃の春初めて伊香保に遊んだ時の作。この時は大に感興が動いたと見え秀歌が多い。又その時の興味が後に迄も続いてゐたらしくも思はれる。熱湯のふつふつ涌き上る浴室で朝の髪を梳いてゐる豊かな肉体を讃美する作で、浴泉の歌の多い中にも最も情熱的なものである。
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雪かづく穂高の山と湖と葡萄茶の繻子の虎杖の芽と
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昔は皆とぼとぼと登つていつた峠の尾根の展望で、榛名湖を中心とする早春の快い光景を写真の様に遠くから順に写し最後に脚下のすかんぽの芽に及んで最も精しく之を叙し読者を現場に誘引する手法である。
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遠方の七重の峰と対ひ咲く榛名の山の山吹の花
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これは峠から湖の方に半ば下つた傾斜面に咲いてゐた山吹の花であらう。この歌などは「調べ」がその生命であつて、そこから山吹の花の黄いろい情緒が僅に空中に発散するのである。かういふ歌特有の持味は字余りや口語歌では決して出て来ない。人間生活が伝統の鎖の一小環であると同様、日本歌の伝統も俄に断ち切るわけには行かぬ。
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娘にて倉の板敷踏みたるにまさり冷き奥山の路
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聯想といふか錯覚といふかとても面白い聯想である。こんな聯想、錯覚が浮ぶ丈でその人は既に立派な詩人だと私は思ふ。現に私などにはめつたに浮ばない。それを凡人といひ、浮ぶ人を非凡人といふ。非凡人の数は極めて少いのだから珍重されなければならない。早春の奥山の路の冷さは非凡人の感覚を通して初めて味はふことが出来る。非凡人あるが故に凡人の精神生活はかうして豊かになるのである。
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舟の人唄を唄へばいと寒き夢かと思ふ湖畔亭かな
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わかさぎ釣の舟でもあらう、舟の男が唄を唄ひ出したので湖畔亭の平静が破れ、初めて生命の躍動が感ぜられた、それはしかし寒い夢でも見てゐる以上のものではなかつた、その位春とはいへ山の上は寒かつたのである。
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雫して黒髪のごと美しき洞に散るなり山桜花
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その中に温泉の涌き出す洞窟でもあらうか、上から雫が落ちてぬれ髪のやうな艶をして居るその口へ今や満開の桜の花が二三片散りこむ湯治場の光景である。国破れても、山河あり、伊香保の桜は今年も濡髪色の洞の口へ散るのであらうが、今ではそれを見に行く方法もなし、そんな気分にもなれない。せめて先人の歌でも読んで仄かにその趣きを偲ぶことにしよう。
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野焼の火心につくを思はずば人に涙の流れざらまし
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冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らじかもわが心焼く と大昔から歌はれてゐるやうに、春の野を焼く炎の美しさ早さ激しさ恐ろしさは、若い心を焼き尽す胸の炎の好象徴である。これは作者が榛名山上で野焼を眺め今にもわが心につくかの如き思ひで涙をこぼしてゐる姿を自ら憐むで[#「憐むで」はママ]作つたもの、惻々として人心を打たずには
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