の湿気の多い頭の重い状態である。詩人のものを考へるや、ある時は自己を中心として世界が囘転するやうに考へ、ある時は自己を空虚にして対境のみ存するやうに思ふのであるが、この歌は初めの場合の最も極端な例で、自己の外に何物も見ない形である。詩は常識ではない。常識はまた詩であり得ない。逆にいへば非常識は詩になり得るわけである。それと同じに極端は多くの場合詩になり得るので、この歌では「尽く」がそれに当る。
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高力士候ふやとも目を上げて云ひ出でぬべき薔薇の花かな
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高力士は玄宗皇帝の取巻き、薔薇の花が楊貴妃になつてめをさまし、高力士と呼ぶ形である。薔薇の花の妖艶な姿もここ迄来ればよくあらはれる。
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ソロモンの古き栄華に勝《まさ》るもの野の百合のみと思はぬも我
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「思ふも我」がどこかに略されてゐなければならぬ言葉遣ひである。しからば何と思ふのであらう。勝るもの色々あるだらうが例へば恋などは第一だと思ふも我といふ句が隠れてゐるわけである。読者は各自、自身の「思ふも我」を補足して見なければならぬ。
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さかしげに君が文をば押へたり柏の葉より青き蟷螂
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秋も漸く進んで少し寒くなりかけた頃によく蟷螂が家に上つて来て机の上などを横行することがある。歌はそれを詠んだものである。しかしそれだけでは面白くないから君の文を机にのせ、それが君の文であるから行為はをかしげになり、それで上の句が出来たわけだ。さて「蟷螂」を生かして目に見えるやうにするには如何すればよいか。作者は色彩を限定することによつて目的を達しようとした、即ち「柏の葉より青き」とやつたのである。
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箱根路の明神山にともる火を忘れぬ人となりぬべきかな
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大正九年初めて箱根に遊んだ時の作。この時の宿は塔の沢ではないかと思つてゐる。私は箱根に遊ぶ度にいつもこの歌を思ひ出して口誦する。いかにも箱根らしい調べを持つてゐて、その心持は他の歌を以ては替へられない。
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彫刻師凡骨をかし湯の宿に人をまねびて転寝ぞする
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日本木版の技術を洋画に応用することは寛先生の考案であり、凡骨がそれを実行したのである。恩義に感じた凡骨は死ぬまで與謝野家に出入して変らなかつた。その凡骨は元来職人ではあるし少し変つた所もあり可哀らしい所もあつたので、夫人はこれを愛してよく冗談を云つたりからかつたりしたものである。旅行にもよくついて行つたがこの時も同行した。凡骨に一寸人並みでない所があるので、人並みに昼寝をするのがをかしいのである。
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涙落つ箱根の谷を上る靄またためらはず為すにまどはず
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晶子さんは思ひ切つたことをよく実行した人である。しかしそれをする迄には幾度かためらひ又迷つたことであらう。今箱根の谷から靄の上つて来る様子を見ると少しも躊躇することなく為たいと思ふことを迷はず断行するものの様だ。しかしその前まだ谷に隠れてゐた間は私と同じ様に幾度かためらひ迷つたことであらう、それを思ふと涙がこぼれて来る。
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二三本芒靡けば目に見えぬ支那の芝居の沛公の馬
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この歌なども今では立派なクラシツクとして国宝あつかひを受けて然るべきものであらう。解釈したり解剖したり批判したりする必要は更にない。唯秋風の吹く土堤か何かを逍遥しつつ朗誦すれば用は足るのである。
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恋をする心は獅子の猛なるも極楽鳥のめでたきも飼ふ
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あらゆる恋がさうであらうとは思はれない。ただ作者好みの恋はさうなくてはなるまい。獅子の猛なるとは 春短し何に不滅の命ぞと力ある乳を手に探らせぬ であり 我を問ふや自ら驕る名を誇る二十四時を人をし恋ふる であり かざしたる牡丹火となり海燃えぬ思ひ乱るゝ人の子の夢 である。極楽鳥のめでたきとは うたたねの夢路に人の逢ひにこし蓮歩のあとを思ふ雨かな であり 春の磯恋しき人の網もれし小鯛かくれて潮けぶりしぬ であり 来鳴かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ であり 恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花 である。
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形よき維摩居士かな思ふこと我等に似ざる像といへども
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維摩像を正叙したものであらうが一面象徴詩でもある様だ。それは維摩居士の特殊の地位による。維摩は居士即ち俗人でありながら仏法即真理を体得し反つて聖者たる仏菩薩を叱咤指揮して憚らない。そこに既成宗教の嫌ひな晶子さんをし
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