湯に柄杓を持ちて人通ひけり
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関温泉はスキイ人のみが知る不便な山の上の昔風の温泉で私は行つたことがないが、柄杓を持つて田舎の湯治客の通ふ光景は想像することが出来る。その柄杓は湯を呑む為もあらうが、それよりも床に寝て湯を汲み上げて体にかける目的のものであらう。それほど旧式な山の湯の光景が第一句の雪深きに照応して分るのである。
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うちつけに是は東の春の海鳴ると覚ゆる大鼓かな
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大鼓がぽんと鳴つた。さうしてぽんぽんと続くのを聞くといきなり春の海が寄せてでも来たやうな心持になつた。富士見町の家の直ぐ上に金春の舞台があつて鼓の音はそこから常にきこえて来た。或日突如として起つた大鼓の音がこんな風に聞こえたのであらうが、詩人が之を翻訳すると読者はゐながらにして反つて海潮音を聞くことにさへなる。
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三千の裹《くわ》頭の法師山を出づこれは王法興隆の為め
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平家物語を詠じた歌の一つで、頭を裹《つつ》んだ叡山の山法師どもが日吉の神輿を担いで山を降る件である。鎮護国家の道場とあるから仏法王法何れを重しとする理由もないが、それは明かに仏法興隆のためではないから、勢ひ王法興隆のためであらうが果して如何かといふ様なことであらう。
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白雲と潮の煙《けぶり》と妄執の渦巻く島の春夏秋冬
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これは俊寛僧都の歌、島は無論鬼界が島。白雲は有王島に著き初め山を尋ぬる件に「嶺に攀ぢ谷に下れども白雲跡を埋んで往来の道も定かならず」から取つたもの、「妄執」は都へ帰りたい一念、[#「、」は底本では欠落]春夏秋冬は三年の歳月である。
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西海の青にも似たる山分けて閼伽の花摘む日となりしかな
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これは寂光院に入られた建禮門院の上である。後白河法皇の大原御幸は卯月二十日余りのことで春も開け山にはつつじ藤の咲出づる頃である。女院は花篋肘にかけ花摘みに行かれた留守であつた。緑濃き春色に西海の青を見て平家没落の跡を思ふのである。
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電柱のまぢかく立つを一本の梢としたるわが家の月
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庭木など低いのが少しはあるが喬木の全くない都内の月見風景である。かく観ずれば立派に家にあつて御月見が出来、こみあふ乗物などに乗つてわざわざよそへ出掛けるにも当らないのである。
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凋落も春の盛りのある事も教へぬものの中にあらまし
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子供もだんだん大きくなつて来たが、さて人生につき何を教ふべきであるか。これから伸びゆく人々に人生にも凋落期のあることなどを教へるには当るまい。しかしそれと同時に、春の盛りに比すべき最盛時のあることも教へたくない。教へなくとも子は自覚する。自覚したものでなくては用を為さぬからである。これも尋常の考へではない。尋常なら凋落だけであつて、それでは歌にはならないのである。
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炉はをかし真白き灰の傍に二つ寄せたる脣も見ゆ
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長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする といふ歌が成長するとこの歌になる。前の場合では作者は第二人とともに歌ふのであるが、この場合は第三者たる「炉」の位置に身を置いて観察するので、何れの場合も一寸目先が変つてゐて珍しい、さうしてそこに新鮮味が生れるのである。
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激しきに過ぐと思ふは涙のみ多く流るゝ自らのこと
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激し過ぎるといふものがあつたらどんなことだらう、又誰の事だらうと考へて見るとそれは自分のことであつた、それは自分の流す涙の多いことであつた。何事につけ晶子さんの涙は流れた、その多過ぎることを御本人が最もよく知つてゐたのである。
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音立てて石の山にも降れよかし下の襟のみ濡らす雨かな
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陰気な五月雨などの降りつづくのをもう沢山だ、降るなら夕立のやうに音をたてて石の山にでも降つたら如何であらう、さうしたら定めて降り足りるであらうに、めそめそ女の泣くやうに降られては人間もあきてしまふといふのである。
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かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴ひて春風通る
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これは町家の春の風景で、春著を著飾つた女の子が四五人羽子板か何か持つて急ぎあしで通つた。まさに春風に率ゐられた形だ。風の擬人を作者は幾度か試みたが、この歌が最も成功してゐる様である。
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重ぐるし春尽く我が上に残り止まる心地こそすれ
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春の終り
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