のである。成るほどこの歌の如きにしても 柔肌の熱き血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君 のやうに 鎌倉や御仏なれどシヤカムニは美男におはす夏木立哉 のやうに一読直ちに瞭然とは行かない。男が一人悄然として物思はしげに立つてゐる。その前は涯知らぬ大海で汐がごうごう鳴つてゐる。沙の上に昼顔が咲いてゐるが何の表情も示さない。この三者を取り合せて一枚の絵を構成し、一小曲を組織したのがこの歌である。それ故にこの歌にあらはれてゐる美術なり音楽なりを受け入れる準備が読者に出来てゐなければ何のことだか分らないわけだ、それではいつ迄経つてもどうにもならないので私が今度これを書き出して少しづつ受け入れの準備をすることになつた訳だ。

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妙高の山の紫草にしみ黄昏方となりにけるかな
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 作者は何万といふ歌を作つたがその三分の二は所謂旅の歌である。旅の歌はしかし第三者には余り興味のあるものではない。而してそれが何十何百と一度に出て来られては堪らない、ことにそれが毎月続かれては尚堪らない。昭和五年雑誌「冬柏」が出てからはさういふ状態が最後まで続いた。よほど根気のよいものでなければ読みきれるものではない。私如きも正直にいつて読んでゐない。私の読んだのは改造社版の全集であるから既に作者の手で厳選を経た沙金のやうなものであつた。「晶子秀歌選」を作るに当つて私の閲した二万五千首はさういふ沙金歌で、その外にまだ本人の捨てたものが相当数ある訳でその内暇が出来たらこの沙の分も一度調べて見たいと思つてゐる。さうすると一生涯に作つた歌の数も概数が分つてくるわけである。閑話休題、さてその沢山の旅の歌の中で最も光つてゐるもう一つにこの歌を数へてよからう。大正十三年八月再度赤倉へ遊んだ時の作。落日をその背面に収めた妙高山の紫の影が山肌の草にしみ入る様を正叙したものであるが、光景は其の儘読者の脳裏に再現せられ、読者はその中で呼吸し得るのである。名歌とはさういふものでなければなるまい。

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母我に白き羅与へたる夏より知りぬ人に優ると
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 作者は自己の優逸を賞賛した歌を幾つか作つてゐるが、之を誇る色はない。唯因縁として運命として偶然として観ずる丈で誇るべきものとは思つてゐない様だ、そこが嫌味とならない所因である、この歌なども唯自覚した機会を美しく平叙するだけで少しも誇つてはゐない。

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夕焼の紅の雲限り無く乱るる中の美くしき月
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 西妙高から初まつて東信越の山々に終る大きな夏の空には真赤な夕焼雲が絵具皿の絵具のやうに散らかつてゐる。その雲の間に白い夕月がちんと収つてゐる。山の様子が少しも示されてないので唯の天球の歌と見るより仕方がないが実はさういふ環境で作られたものである。

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長持の蓋の上にて物読めば倉の窗より秋風ぞ吹く
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 堺の駿河屋の土蔵の中で更科日記か何か取り出して読んでゐる町娘の姿が浮んで来た。それは正しく自分である。倉の窓からは初秋風が涼しく吹き込んでゐた、丁度今日の様に。

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深山鳥|朝《あした》の虫の音《ね》にまじり鳴ける方より君帰りきぬ
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 郭公がしきりに啼くのでどの辺だらうかとその方角を尋ねて居ると暁の露を踏んで早くから散歩に出た良人が、丁度その声のする方から帰つて来た。個中の消息誰か之を知らんといふ訳であらう。

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古里の蓬の香など匂ひ来よ松立つ街の青き夕ぐれ
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 正月の街は松が立つてゐて外に色がない為何となく青味が勝つて見える。そこに若草の萠え出る早春の感じが出て来る。さうして故郷の和泉平野の蓬の匂ひが今にもしさうに思へる。そんなことを思ひながら暮れてゆく正月の街を見てゐた作者であつた。さうしてさういふ正月の街も嘗てはこの東京にもあつたのである。

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昔より恋にたとへし虹なれど消ゆることいと遅き山かな
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 夏の朝の山上の虹のいつまでも消えない消息を逆に喩への方から引出さうとするので、少し変だが有効な手段でもあるやうだ。

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春立ちぬ人と為したる約束を皆忘れ得ば嬉しからまし
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 大晦日から元旦にうつる気分は色々表現され得るであらうが、これなどはその最も適切なものの一つであらう。元来時に大晦日も元旦もあつたものではない。それすら人の約束である。一切の約束を忘れてしまへば空気が残るだけで、それがきれいさつぱり洗はれた立春の本来の姿でもある。

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雲深き越の国なる関の
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