易ならぬ異変であつた。しかし当時は幸に晶子さんといふ詩人がゐて歌に之を不朽化してくれたので文化史上の一齣を為し得た。然るに今囘の戦禍は如何であらう。その数倍数十倍に上る災禍も一詩人の詩に作つて之を弔つたものあるを聞かない。情ないことになつたものである。

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大正の十二年秋帝王の都と共に我れ亡びゆく
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 これなどは昭和二十年春浅くとでもした方がどれ程適切か分らない。それにしても晶子さんはよい時に死んだものである。

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天地|崩《く》ゆ命を惜む心だに今暫しにて忘れ果つべし
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 命を惜む心は人間最後の心であつて、それより先にものはない。その最後の心をも忘れる許りに恐ろしかつたのである。あの繊細な感覚の持主にして見れば無理はない。

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空にのみ規律残りて日の沈み廃墟の上に月昇りきぬ
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 二十五年も前の事だが九月二日三日とまだ烟の立ち昇る焼跡に昇つた満月の色を私は忘れない。日は沈み月は昇るがそれは空の事、人間世界は余震と流言と夕立とでごつた返してゐたのであつた。

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十余年我が書き溜めし草稿のあとあるべしや学院の灰
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 作者の新訳源氏物語の出たのは與謝野寛年譜によると大正元年になつてゐるが如何ももつと前のやうな気がする。この草稿といふのはそれは併し文語体を以てした抄訳であつた。詳細を極めた源氏の講義録のやうなものでそれを土台にして完訳を試みる積りであつたらしい。何しろ異常な精力をかつて十年間に書き溜めたのだから厖大な嵩のもので、麹町の家に置くことを危険として文化学院にあづけて置いたものである。それを焼いてしまつたのだからその失望の程思ひやられる。しかしその灰からフエニツクスのやうに復活したのが一人となつて晩年に書き出して遂に完成した新々訳源氏物語である。それがまるで創作のやうによくこなれてゐて他人の追随を許さないのも遠因はここにあるのである。

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鈴虫が何時蟋蟀に変りけん少し物などわれ思ひけん
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 鈴虫を聴いて居た筈であつたのに、どうしたことか蟋蟀が鳴いてゐる。いつの間に鈴虫は鳴き止んだのであらう、また何時蟋蟀が之に代つたのであらう、私は何か考へてゐたに違ひないといふのである。私は音楽を聴きながら常に之と同じ感じを持つ、何か物を考へて居てかんじんの曲を聞いてゐない、さうして時々気がついては曲に耳をかたむけるのである。これは私の音楽の場合であるが、蒲原有明さんの場合はそれが芝居で起るのである。蒲原さんは芝居を見て居て物を考へてしまふ、といふことは芝居を見てゐて見ないことを意味する。それ故に蒲原さんは決して芝居を見ないといふことを御本人から聞いて、私の音楽の場合と同じだなと思つたことがある。その最も軽いオケエジヨナルの場合がこの歌である。

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思へらく岳陽楼の階を登りし人も皆己れのみ
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 昔聞洞庭水。今上岳陽楼。呉楚東南拆。乾坤日夜浮。親朋無一字。老病有孤舟。戎馬関山北。憑軒悌泗流(杜甫)もしこの詩から出たものとすれば岳陽楼の階を登つた人とは杜甫のことになる。然らば「皆」の中には李白、白居易、蘇軾等々が数へられ、それらの詩人文人皆我が前身又分身である。私は自身をさう考へてゐるとなるのであらう。

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皆人の歩む所に続く路これとも更に思はぬを行く
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 我が行く路は荊棘の路であつて、因習に循ふ諸人の道にそれが続くとはどうしても思はれない。けれども私はかまはずそれを進んでゆく。晶子さんはこの心構へで一生を貫き通した人であつた。洵に壮なりといふべきである。

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山の馬繋ぐ後ろを潜るには惜しき我身と思ひけるかな
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 越後関山の関温泉へ行つた時作つたもの。たまたまかういふ破目に陥つたのであるが、何が幸ひになるか分らない。こんな面白い歌もその為に生れて来る。矜誇もこの位の程度なら誰でも同感出来るであらう。

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海は鳴り人間の子は歎けども瞬きもせぬ沙の昼顔
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 晶子中年の近代調を代表するものの一つで、この頃から晶子歌の世間性がなくなり、其の傾向は年を追ひて甚しくしまひには時代と詩人とは全くの他人となり終つたのである。それであるから世間の知つてゐる晶子歌は若い頃の比較的未熟なものに限られることになり、作者は常にそれを歎いてゐたが、しまひにはそれも諦めてしまひ、人に読んで貰はうなどと思ふことなく唯ひたぶるに詠みまくつて墓へ這入つてしまつた
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