藤原の理髪の家の前の土馬車を待つ間に夕霜の置く
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 私は行つた事がないが藤原の湯とは蓮台寺温泉の事でもあらうか。今夜は下田へ行つて泊らうと宿を出て、理髪屋の前で下りの馬車を待つてゐると日が暮れかかつていつの間にか夕霜が白く置いてゐた。恐ろしく細かい観察であり、又時所位の限定でもある。さうしてそれ故に特殊の美が生ずるのである。

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山に居て港に来れば海といふ低き世界も美くしきかな
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 蓮台寺から下田へ来ての感想であるが、「海といふ低き世界」は今では私共の間では熟語になつてしまつてゐる。感覚の正確妥当さを証する一例である。

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洞門と隣れる家に僧の来て鉦打ち鳴らす多比の夕暮
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 静浦から韮山の方へ出るトンネルの付近は地方有数の石切り場で、いくつかの洞が出来てゐて、一寸風変りな光景を呈してゐる。そこへ念仏僧か何か来て鈴を鳴らす。日の暮の薄靄が海面を這ふといふ様な光景である。

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七月の夜能《やのう》の安宅陸奥へ判官落ちて涼風ぞ吹く
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 安宅がすんだ、判官は通過した、緊迫が解けた、まあよかつた、ほつとして一息つくと、七月の夜も既に更けて涼しくなつてゐた。

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切崖の上と下とに男居てもの云ひ交はす夕月夜かな
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 これも富士見町辺で見掛けられた小景を其の儘切り取つたもの、ありのすさびの一興である。

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鴬や富士の西湖の青くして百歳の人わが船を漕ぐ
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 大正十二年七月夫妻は富士五湖に遊んだ。精進ホテルはあつたが外人の為に出来てゐたので、日本人の遊ぶものまだ極めて少い時代であつた。西湖なども小舟で渡つたのでこの歌がある。西湖の色は特に青くもあり、環境は一しほ幽邃で仙骨を帯びてゐる許りでなく少しく気味のわるい様相をさへ呈してゐる。そこで舟を漕ぐ船頭迄百歳の人のやうな気がするといふのであらう。

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勢ひに附かで花咲く野の百合は野の百合君は我に従へ
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 文句を云はずについていらつしやいといふべき所を女詩人らしくいふと斯うなるのである。斯う云はれて見ると附いて行かざるを得ないであらう。野の百合はソロモン王の栄華を尻目にかける頑な心の持主である。

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なつかしき萩の山辺の白雲をおしろい取りて思ふ人かな
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 おしろいを解きながら、唯その白いといふ色の縁だけで、白雲の飛ぶ山の景色を思ひ浮べ得るほどの人は、それだけで既に立派な女詩人である。次にこの歌に同感し得るほどの女性なら歌人になれる。この歌の分らない人は一寸難しい。

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時は午路の上には日影散り畑の土には雛罌粟の散る
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 これは近代感覚を欠く人には一寸分るまい。ワン・ゴオクの向日葵に見るやうな強烈な白いほどの日光と真赤なひなげしの葩の交錯する画面で、色彩二重奏といふほどのもの。さうしてそれ以外の何物でもないから、古い歌の概念で臨んだのでは分りつこはない。

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花園は女の遊ぶ所とて我をまねばぬ一草もなし
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 これは松戸の園芸学校の花畑を歌つたものである。季節は虞美人草の咲く初夏のことであつた。百花繚爛目の覚める様な花畑の中に立つた作者が自分の女であることを喜びながら一々の花に会釈し廻る趣きである。

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君亡くて悲しと云ふを少し越え苦しと云はゞ人怪しまん
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 有島武郎さんの死を悼んだ歌。この両人の関係は前にも一度触れたが、晶子さんを十分に appreciate した多くない人の中で、恋人のやうな気持で近づいたのはこの人だけであつた。それだけ晶子さんには掛け替のない男友達であり、同時代人であつた。しかし如何にその死を悼む情が痛切であつても、それが同じ年頃の異性である場合、十分に心を抒べることが出来ない。それが「苦しい」のである。因にその時の挽歌を少し引かう。 書かぬ文字言はぬ言葉も相知れど如何すべきぞ住む世隔る しみじみとこの六月程物云はでやがて死別の苦に逢へるかな 信濃路の明星の湯に友待てば山風荒れて日の暮れし秋 我泣けど君が幻うち笑めり他界の人の云ひがひもなく から松の山を這ひたる亡き人の煙の末の心地する雨

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休みなく地震《なゐ》して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街
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 大正十二年秋の関東大震災は今日から見れば大したことでもなかつたが、戦争以前の日本人には容
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