出て居る。

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夢醒めて我身滅ぶと云ふことの味ひに似るものを覚ゆる
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 夢が浮世か浮世が夢か、畢竟夢の世の中に唯一つ確なことは夢の存在である。夢だけは確に夢である。その夢の醒めることは即ち我が身の滅びることでなければならない。仏教哲学的に云へばさういふ理窟にもなるが、この歌はそんなことには関係なく単に作者の瞬間的の感覚を抒したもので、私にも同じ様な醒め際があるのでよく分る。しかしその感覚の根底を為す潜在意識といふものがありとすれば前の理窟のやうなものでは無からうか。

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宮城野の焼石河原雨よ降れ乾く心はさもあらばあれ
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 大正十一年十月初めて箱根仙石原に遊んで俵石閣に泊したその時の作。丁度早川の水涸れの時期であつたらしい。焼石のごろごろして居る河原は見るも惨たらしいが、それは実はわが心が同じ様に乾いてゐるので、それが反映して痛ましく感ぜられるのではないか。せめて雨が降つて河原だけでも濡らして欲しい。それを見たら私の心も少しは沾ふことだらう。といふ様な意味の歌だが、そんなことは如何でも宜しい。読者はその調子のすばらしさを味はつて生甲斐を感じて欲しい。

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水落つる中に蹄の音もして心得難き朝朗かな
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 作者が単行本として出した最後の集は第十九集「心の遠景」である。この集に就いて作者はこんなことを云つてゐる。「若し私が長生するならば、斯くいふ今日の言葉に自ら冷汗を覚える日が無いとも限らないのであるが、とにかく小さい私の作物として、今日は「心の遠景」を最上の物として考へてゐるのである。」それは昭和四年の事であつたが、その後の事実は作者の予想した通りで、作者の表現法は年と共に進んで極る所がなく、「心の遠景」なども忘却の靄の中に埋没してしまふ許り影の薄い存在となつたのである。しかし今私が若い頃からの全詠草を順序を立てて見直して来てすぐ気が付いたことは、まだまだこの辺までは真の自由を得て居ないといふことである。その証拠は「太陽と薔薇」の自序にある。曰く「私は久しく歌を作つて居ながら、まだ自分の歌に満足する日が無く、絶えず不足を感じて忸怩としてゐる人間です。自分はもう歌が詠めなくなつたと悲観したり、歌と云ふものはどうして作るものであつたかと当惑したりすることが毎月幾囘あるか知れません。内から自然に湧き上る熾烈な実感の嬉しさに折々出合ふ時でさへ、それの表現に行詰つて唖に等しい苦痛の中に人知れず困り切つてゐることがあります。その難関を突破して表現の自由を得た刹那に詩人らしい自負の喜びを感じるにしても、次の刹那にはまた現在の不満を覚えて、自分の歌に対する未来の不安を抱かずにゐられません。」私などもつひこの間まで詩人としての自覚がないのでその程度は尚浅いにしても同じ悩みを持つてゐたから、その苦心の状態がよく分る。しかしその不自由もやがて完全に縄の解ける日が来て遂には昔の夢になつてしまつた。この歌などがその自由を得た日の極く初めの方を記念するものの一つであらう。思つたこと――それは摩訶不可思議な、仙人の見る夢のやうな、名状すべからざるものの影に過ぎない――がそのまま歌になつて少しの渋滞の跡も示さない、斯ういふのを表現の自由といふのであつて、作者の如き才分の豊かさを以てしてもここに達するには二十年の苦しい修練を要したのである。この作も前のと同じく俵石閣で作つたもの。その庭には池があつて山の水が落ちてゐた。下の街道には荷を著けた馬が通つてゐた。ふと目がさめて見ると不思議な音が聞こえてゐてそれは明かに東京の家ではなかつた。ここのこの感じが歌はれてゐるのである。

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上なるは能の役者の廓町落葉そこより我が庭に吹く
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 これは富士見町の崖下の家の実景で、秋の終りともなれば崖上の木の葉、中でも金春舞台を囲む桐、鈴懸、銀杏、欅皆新詩社をめがけて散つたのであらう。この辺もしかし空襲ですつかり焼けてしまつたといふことである。

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手綱よく締めよ左に馬置けと馬子の訓へを我も湯に読む
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 大正十二年一月天城を越えて南伊豆の初春を賞した。その時谷津温泉で作つたもの。自動車交通の開ける以前の伊豆旅行は凡て円太郎馬車か、馬の背に頼る外無かつた。従つて初めて馬に乗るものの為に乗馬の心得が浴場の壁に掛けてあつたとしても必ずしもあり得べからざる事でもない。南伊豆の狭い海岸の天城颪の吹きまくる谷津の湯の湯船の中で女の私が乗馬訓を読まうなどとは思はなかつたとをかしいのであるが、しかし如何にもよい訓へだと感心してゐる趣きも見える。

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