が如く訴ふるが如き姿態などは夢にも知らぬ様だ。折角頂いた牡丹だが、牡丹に口なし、乃ち代つて私がその美を語らう。私は長安の貴女楊氏です、人を怨むなどといふさもしい事は知りません。

[#ここから2字下げ]
蘭の鉢百も並べて百体の己を見るも寂しはかなし
[#ここで字下げ終わり]

 澁川玄耳さんが山東省へ行つたきり遂に帰つて来ない。しきりに蘭を蒐集して閑を遣るものの如くである。一鉢一鉢に自己を打ち込めば百鉢には百鉢の玄耳があらはれるわけだが、我と我が姿を見てもはじまらぬではないかと遠くその心情を憐んだ[#「憐んだ」は底本では「憐むだ」]歌である。も一首 泰山を捨てゝ来よとも云ひなまし玄耳の翁|唯人《ただびと》ならば といふのがある。常人でない玄耳さんの事故泰山なんか捨ててしまつて帰つて御出でなさいと単純にも云へないのである。

[#ここから2字下げ]
錦木に萩もまじれる下もみぢ仄かに黄なる夕月夜かな
[#ここで字下げ終わり]

 錦木の下に萩の植込みがあり、錦木は牡丹色に萩は黄色にもみぢしてゐる。その上に夕月が掛つた。そのうちに錦木の紅は黒く消えてしまつて萩もみぢの黄色のみが仄かに浮き出して来るのである。これは純な日本の伝統を襲ふものであるから晶子歌でも翻訳は出来ない。

[#ここから2字下げ]
物見台さることながら目を閉ぢて我は木の葉の散る音を聴く
[#ここで字下げ終わり]

 武蔵野にある久保田氏の都築園といふのに遊んだ時の作。その中に物見台といふ小高い所があつて登つて見たが、私は物を見る代りに目を閉ぢて反つて木の葉の散る昔を聴いてゐる。極く軽いユウモアはあるが別に皮肉ではない。さうして反つてよく武蔵野の晩秋の光景があらはれてゐる。

[#ここから2字下げ]
森に降る夕月の色我が踏みて木の実の割るゝ味気なき音
[#ここで字下げ終わり]

 これは珍しく押韻の歌があつた。啄木流に三行に書くと
[#ここから4字下げ]
森に降る夕月の色
我が踏みて
木の実の割るゝ味気なき音
[#ここで字下げ終わり]
 はつきりものの音が響いて来て一寸面白い。意識して作つたものでは勿論ないが、将来ロオマ字歌が作られる様になつたらこんな方向にも進む機会がないとも限らない。

[#ここから2字下げ]
降る雪も捕手が伸ばす足も手もうるさき中の美くしき人
[#ここで字下げ終わり]

 作者は必ずしも芝居好きでなく余り度々も行つて居ないが、それでも芝居の歌をいくつか詠んでゐる。これもその一つ。芝居のことに暗い私にはこの光景が何の幕切れであるか知る由もないが、見たことはあるやうだ。女のやうでもあるが、羽左衛門なら男でも当て嵌まる。雪や手や足が邪魔になるやうで邪魔にならずそれぞれの効果を挙げてゐる所が「うるさき」で表現されてゐるのである。

[#ここから2字下げ]
殿上に鱶七も居て煙草飲むかかる世界を賞でて我|来《こ》し
[#ここで字下げ終わり]

 考へて見れば歌舞伎劇の世界こそ途方もない世界である。千本桜なども正にその一つであらうが、途方もない世界であることもさう云はれて見れば人はやはり忘れてゐる。事々物々作者を泣かさぬといふことのないこの世の中で、独り一番目の舞台に限り全くの別世界である。感覚の鋭い作者故にこの感も深いのであらう。

[#ここから2字下げ]
序の曲の急なりあはれ何事にならんと涙滝のごと落つ
[#ここで字下げ終わり]

 さう思つて芝居には来たのに既にして大ざつまが初まれば、もう駄目である。何か非常なことの行はれる予感がして涙が滝のやうに落ちて来る。家にあつてはこんな涙は出ないのに。

[#ここから2字下げ]
何すらん船の数ほど人居たり口野の浦の春の黄昏
[#ここで字下げ終わり]

 大正十一年二月畑毛から昔の馬車に乗つて静浦に出た。海岸には漁夫らしい男が一塊居た。何か初まりさうなけはひが感ぜられた。その光景が旅の心を打つたのである。

[#ここから2字下げ]
限りなき命を持ちて居給ふと思ひしならね頼みし如し
[#ここで字下げ終わり]

 鴎外先生を弔ふ歌の一つ。鴎外先生は晶子さんの心から畏敬した先輩の一人であつた。従つて同先生から認められたことはどれ位嬉しいことか知れなかつた。巴里行の場合なども、偶※[#二の字点、1−2−22]満洲から出て来た私が一日夫人の行きたがつてゐる趣きを先生の耳に入れた処、先生は即座にさうだらう、行きたいだらう、宜しいそれでは俺も一つ骨を折らうと言つて三越に話されその方からも何程かの費用が出た筈である。それ位晶子さんを可愛がつてゐた先生が俄になくなられたので、その失望は大きかつたらしく、それがこの歌の「頼みし如し」によく現はれてゐる。又 何事を思ふともなき自らを見出でし暗き殯屋の隅 といふ歌もあるが、それにも同じ心が
前へ 次へ
全88ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング