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美と実生活、難しい問題である。そこへ更に宗教が出て来て世間と出世間の問題が加はつたのがこの歌である。出世間人が出世間人であること、実生活を捨てて美を取ることは現代に於ては勿論いつの世でも一寸珍しい図面ではなからうか。そんなことがあつたらそれこそ面白い珍重すべきことなのであるが、実はおあいにく様である。不可能事を空想することそれは古人もやつたことであるが、往々にして好詩を形成することがある。
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何事か知らず篝の燃えに燃え宿の主人に叱らるゝ馬
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大正十年八月再び沓掛の星野温泉に遊んだ時の作。この時は私も一緒に行つた。私は第十七集「草の夢」の為に序を作つたが、その中でこの歌の成立した時の光景を書いてゐるので一寸思ひ出して見る。それはある夕方軽井沢の莫哀山荘に尾崎先生を御尋ねしたその帰りに沓掛駅まで歩いて来たことがある。 ほととぎす沓掛橋を渡る頃夫人の脚は労れたるかな といふ歌を十年振りで私が詠んだ時の事である。沓掛駅に来て星野温泉の馬車に乗らうとすると今汽車が著いた所と見え満員で乗れなかつた。そこで止むを得ず労れた足を引ずつてあの埃ぽい路を歩いて帰つたことがあつた。帰つて見るともう日も暮れてしまひ、捕虫の目的であらう庭には篝がたかれてゐたが、私達が歩いて帰つたのを見て、なぜ迎へに出なかつたのかと主人が馬車を仕舞うとしてゐた馭者を叱かつた。それを馬が叱られた様に思つたのである。馬は叱られてその意味が分らずきよときよとして向うを見ると篝火が燃えさかつてゐて、それが小言と関係があるやうにも思へるが、この暑いのに何の為に火を焚くのかそれも分らずに当惑して居る形である。
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夏草を盗人のごと憎めどもその主人より丈高くなる
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その頃の星野温泉はまだ出来た許りで、将来庭となるべき所も未だ夏草の原であつた。主人は早く草でも刈つてきれいにしたいが何分にも人手がないのでとか何とか言ひわけをすると、それを聞いた寛先生はとんでもない。山荘の庭などといふものは草あるが故に貴いので、草を刈つてしまつては町家の庭も同じことになつてさつぱり値打ちがなくなつてしまふとか何とか、主人も主人だが寛先生の方も少し無理な負けず劣らずの夏草問答があつた。それを聞いて居て良人の肩を持つたのがこの歌である。
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女郎花山の桔梗を手弱女の腰ほど抱き浅間を下る
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今の千が滝の地は当時は落葉松の植わつた唯の高原で、そこから山の秋草を一抱へ持つて宿の男でも帰つて来たのであらう。その束が余り大きかつたので、ダンスをして相手を抱いてゐる形などを聯想したのであらう。
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姑と世にいふものが片隅にある心地する暗き浴室
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姑だけは晶子さんの知らない存在である。また許し難い存在であつたかも知れない。その姑さんが居るやうだといふのだから余程暗い気味のわるい風呂場だつたに違ひない。或は自家発電による暗い電灯の為だつたかも知れない。
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越の国斯かる幾重の山脈の何処を裂きて我来りけん
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前と同じ行、初めて赤倉温泉に浴した時の作。北の方日本海に向つて大きく開けてはゐるが、他の三方は皆山で、特に東方は上信越の山々が屏風を重ねたやうに屹立して居る。成るほどさう云はれて見ると東から来た筈の私達はトンネルも潜らずに何処を如何して来たものか怪しまずには居られない山の立たずまひである。
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山涼し馬を雇はん値をばもろともに聞く初秋の月
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同じ行赤倉を出て渋の奥にある上林温泉へ廻つたが環境がもの足りなかつたのでも少し奥へ這入りたかつた。ここから上州白根へ抜ける路に発甫《ほつぽ》といふ小温泉のあることが温泉案内に書かれてある。しかし馬でなければ行かれぬ。そこで馬子を呼んで貰つて打ち合せをした。初秋の月がその相談を上から聞いて居た。しかし雨が降つたか如何かしてこの発甫行きは実現しなかつた。
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大木の倒さるゝ事幾度ぞ胸をば深き森と頼めど
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千古斧鉞を入れぬ処女林のやうに思つて頼みにして来た我が胸にもいつの間にやら忍び入るものがあつてその度に大木が地響打つて伐り倒された。ああ人生の悲劇、幾度か幕が降りたがどこ迄続いて行くのであらう。
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賜りし牡丹に代りもの云はん長安の貴女人を怨まず
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天下無双の容色を誇り帝寵を一身に集むる楊貴妃のやうな女に人を怨むといふことはない。牡丹の花を見るに、海棠の雨に濡れて怨む
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