る、それは香水の匂ひなどと違つて極く淡い忘れ難い匂ひである。詩人の嗅覚にはそれが人の香のやうに感じたのかも知れない。さうだとすれば、人の香の懐しきこと限り知られずとは即ち菊の花に顔を当てた時の感じだ。私にはこれ位より考へられないからこれで負けて貰ふことにする。
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薄白く青く冷たき匂ひする二人が中の恋の錆かな
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作者は第十六集「太陽と薔薇」の自序で斯う言つて居る。「三十一音の歌としての外形は従来の短歌に似て居ます。似てゐるのは唯だそれだけです。読者は何よりも先づ、私の個性がどんなに特異な感動を持つて生きてゐるかを、私の歌から読まうとなさつて下さい。唯だ感覚に就てだけでも何か他人と違つた私の個性が現はれてゐるとしたら、とにかく私の歌の存在の理由が成立つ訳です。」 洵に作者の感覚は従来の日本人のそれとは大分違つてゐる。私もこの本でそのことを幾度か説いた様に思つてゐる。しかしこの歌のそれは明かに近代感覚であつて、意識して取り入れたものである。試みに外国語に訳して見れば分る、少しも日本臭などはせず、近代人なら誰でも其の儘受入れることが出来よう。もしこの歌を読んで何のことだか分らないものがあるとすれば、それは万葉集の外何も知らない短歌人か、古今集以下を習ふ和歌人かであらう。
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白銀の笛の細きも燃ゆる火の焔の端も嘗むる脣
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対照の美である。対照の美が高級の美となる為には照応すべきものの選び方が大切である。もしそれが誰でも思ひつく程度のものなら美は成立しない。フルウトの歌口と火焔の端とは可なり距離があつて同日の談でない。しかも一方は物そのものであり、一方は恋をする若い女の象徴である。その同日の談でないものを同一の脣に当てるから初めて美が成立し、その程度も可なり高いものとなるのである。
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桜疾く咲きたる春と驚きぬ我が送る日のいと寒き為め
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この歌なら誰にでも分るであらう。またこの位な体験なら誰にでもあらうから。唯その言葉遣ひの甚だ滑らかにおだやかに不自然な所のないのを私は尚ぶ。
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音高く鳴る鈴を皆取り捨てぬ昨日に変ることはこれのみ
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もとより象徴的であるからその解釈は読者の勝手である。例へばこんな風の場合がその一つ。世間に喧伝してゐる晶子さんの歌は若い時のもの許りで絢爛として目を射るやうなものが多い。 罪多き男懲らせと肌清く黒髪長く創られし我 清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人皆美くしき 咒ひ歌書き重ねたる反古取りて黒き胡蝶をおさへぬるかな 春はただ盃にこそ注ぐべけれ智恵あり額の木蓮の花 人の子に借ししは罪か我が腕白きは神になど譲るべき などいふ様な「乱れ髪」調がそれだとすれば之等は即ち音高く鳴る鈴である。そんな鈴は皆取り捨ててしまつた。昨日と違ふのはそれだけのことである。私自身は少しも変つてゐはしないのに世間はもはや振り向かうともしない。鈴などは借物である。その借物の音を彼此言はれるのがいやだし特に高い音には厭になつたので皆捨ててしまつたまでである。
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空青し雁の渡るを眺むらん孝標の女も国府の館に
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葛飾の十橋荘で作つた歌。そこから国府の台が近く見える。そこは更科日記の作者が少女の時代、父の国司(菅原孝標)の手許で過した所である。今日は空が晴れて美しい日だから古への文学少女も外を眺めて渡る雁がねを聞いてゐることであらう。孝標の女は源氏物語のフアンでこの点晶子さんと同好のよしみがありお気に入りの一人と思はれる。
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紫に墨しみ入りて我が心寂し銀糸の紋を縫はまし
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紫は作者の最も好む色でそれを以て心の象徴としてゐた処、いつしか時の流れの墨の色がしみこんで大分くすんでしまつた。それだけでは少し寂しすぎるので、銀糸で縫ひ取りでもしようといふのであるが、さて銀糸の紋とは何であらうか。李白でも読まうか、絵でも習はうか、梅蘭芳を見に行かうか、それとも温泉へでも行かうか。詩人の心も欲しいものは好ましい刺戟であらう。
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屋根の雪解けて再び雨と降る更に涙にならんとすらん
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屋根の雪(第一変化)の解けて雨垂れになつて落ちる(第二変化)のを眺めてゐると、第三番目に変化したら何になるのだらうと考へるに至つた。その時は疑もなく人の涙線に入つて涙となつて流れる様に思はれる。もとは同じ水蒸気であるからさうなくてはならぬのであらう。
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薔薇少し米《よね》用なしと法師より使来たらばをかしからまし
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