皷よしいみじく清き猩々が波の上をばゆらゆらと行く といふ歌があるので、その舞の猩々であることが分る。

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鴉ども落日の火が残したる炭の心地に身じろがぬかな
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 ここに又印象|歌《うた》の内でも最も濃淡のはつきりした一例が見られる。冬の落日の印象で、日が沈み終つても尚裸木に止つた儘動かない鵜を火の消えた火鉢の炭のやうに感じたのである。

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束の間も我を離れてあり得じと秋は侮る君の心も
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「君の心も」は「君の心をも我が心をも」の略であらう。倦怠の夏が過ぎ、快い秋ともなれば、恋の引力が急に増大して離れられなくなる。それを見る秋は人の心の弱さ頼りなさを侮らずには居られないであらう。

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寂しさを華奢の一つに人好み我は厭へど逃れえぬかな
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 この人は誰でもよい、古人でもよい、寛先生であつてもよい。兎に角日本人には寂しさを好むものが多い。私は華やかなことは好きだが、寂しさやしをりは大嫌ひだ。しかし人生の一面である以上それから逃れるわけにもゆかないのである。

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秋風は長き廊ある石の家吾が為めに建つ目には見えねど
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 作者は巴里滞在中、油絵の手ほどきを受け、帰朝後も暫く写生を続け、素人としては雅致なしとしない幾枚かを作り富士見町の壁に懸けてゐたことがある。それも作者が造形芸術家としてその資格を欠かない一証ではあるが、この歌などは作者の造形芸術家としての面目を明瞭に表してゐる。或は音楽として或は美術として自由自在に自己を表現して余す所のなかつた作者は珍重されなければならない。

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信濃川鴎もとより侮らず千里の羽を繕ひて飛ぶ
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 大正十三年八月新潟での作。日本第一の信濃川の河口を鴎が飛んでゐる。千里の海を飛ぶ鴎ではあるが大きくとも尚狭い、信濃川を侮るけしきなく、羽づくろひをして力一杯に飛んで居る。これは同時に象徴|歌《うた》であつて、どんなことにも全力を尽くして当る作者自身の心掛を鴎に見出したのである。

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天地に解けとも云はぬ謎置きて二人向へる年月なれや
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 夫婦生活の謎である。その謎は遂に解かれずして今日に至つたが、思へば変な年月を暮したものだ。他人も皆さうなのであらうか。道歌の一歩手前で止まつた形ともいへる。少し匂ひがするがこの位はよからう。「なれや」は少し若い。

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大海に縹の色の風の満ち佐渡長々と横たはるかな
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 荒海や佐渡に横たふ天の川 がある以上その上に出来て居る作だと云はれても仕方がないが、詩としての価値はそんなことで左右されはしない。詩人としての才分を比較すれば、晶子さんの方が数等上であらうが、この句と歌とだけを比較すれば一寸優劣はつけにくい。芭蕉もいい句はやはり大したものである。

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誰れ見ても恨解けしと云ひに来るをかしき夏の夕暮の風
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 晶子さんの心が漸く生長して少しのことでは尖らなくなつた頃の作。その心持が偶※[#二の字点、1−2−22]夏の夕暮の涼風に反映したものであつて、同時にそれは又万国和平の心でもある。

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近づきぬ承久の院二十にて遷りましつる大海の佐渡
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 佐渡といへば或るものは金山を思ふであらう。近頃の人ならおけさを思ふであらう。作者はしかし佐渡へ渡らんとして第一に思つたのは順徳院の御上であつた。歌人として史家としてさうあるべきであるが、その感動がよくこの一首の上にあらはれてゐて、自分をさへ一流人として感ずるものの様に響く。

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水の音激しくなりて日の暮るゝ山のならはし秋のならはし
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 大正九年初秋北信沓掛の星野温泉に行つた時の作。あそこは水の豊富な所だから特にこの感が深かつたのであらう。

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菊の花盛りとなれば人の香の懐しきこと限り知られず
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 菊の花の真盛りと人懐しさの極限に達することとの間に如何いふ関係があるのであらうか。詩人はものを跳び越えるので、橋を渡して考へなければ分らないことが多い。先づ気候が考へられる。菊の花盛りは十一月の初旬で空気が澄み一年中一番気持のよい気節で、人間同志親しみ合ふのも最も適してゐる、結婚などもこの月に多いやうである。も一つ考へられる橋は菊の匂ひである。この匂ひは木犀やくちなしの様に発散しないし、薔薇のやうに高くもないが、近く寄つて嗅ぐ時は一種特別の匂ひがす
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