みであつて、別れた男の外套の鼠色が空に拡がり、それが心にうつることにしたのである。

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しめやかにリユクサンブルの夕風が旅の心を吹きし思ひ出
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 フランスを思ひ出した歌の一つ。夫妻の巴里の宿は近代画を収めて居るリユクサンブル博物館の辺にあつたやうで、そこへは夏の日の長い巴里では夕食後に行つても尚明るく、夕風がしめやかに旅の心を吹いたのであらう。巴里に居たのは大正元年でこの歌の出来たのは十三年であるから十余年の歳月がその間に流れ、作者の歌人としての技量はぐんと進んだ。思ひ出の歌の方がすぐれてゐるのはその所である。

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もの云はじ山に向へる心地せよ君に加ふる半日の刑
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 ものやはらかな刑であつて、作者の漸く成長したことを思はせる。紅梅どもは根こじてほふれといつた様な時代であつたらこんな事では済まされなかつたであらう。それにしても山に向へる心地せよとはうまいことをいつたものである。この歌などもその内に恋をする若い女性の常識となる日が来るであらう。又その位に日本女性の趣味教養が高まらねばだめである。

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二夜三夜ツウルの荘に寝る程に盛りとなりしコクリコの花
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 コクリコの花とは虞美人草の俗名ででもあるらしい。作者はひなげしとちやんぽんに使つてゐる。ツウルの荘はピニヨン夫人のロアル川上の水荘である。当時の歌の ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君もコクリコ我もコクリコ の大に盛なのに対し、この歌には十余年を経てすつかり落付いた作者の心境が示されてゐる。

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額髪ほほけしを撫で何となく春の小雨の降れと待たれぬ
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 たわいない歌のやうであるが、棄て難い味なしとしない。ほほけしを撫でといふ所もよいのであらう、それが春の小雨といふ小さな期待であることもよいのであらう、何となくもよいのであらう、小さいことだがそれらが三つ重つて軽い楽しい持味を作り出すのであらうか。

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歌の本絵の本尋ね何時立たんセエヌの畔《ほとり》マロニエの下
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 これはフランス囘顧の歌ではなく、四十になつた作者が夢に巴里に遊び、例の河岸の石垣の上に店を出した古本屋[#「本屋」に傍点]を覗き込む歌である。

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よそごとになしてその人死にぬなど話を結ぶありのすさびに
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 短篇小説の筋でも話すやうに一くさり我がロマンスを話したがその話の真剣なのに似ず、簡単によそよそしくその人は今は死んでゐないといつて話の結末をつけてしまつた。自分でもそれが一寸面白かつたのである。

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前なるは一生よりも長き冬何をしてまし恋の傍
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 作者この時四十八歳。尚しかし恋の傍らといへるほどの若さと戯れにダンスをさへ弄ぶ快活さとを失つてゐなかつたのである。それでゐて、私が今頃になつて漸く感じ出した冬の長さを感じて一生よりも長いやうだと云ひ現はしてゐるのには全く感心させられる。感覚の感度の相違である。しかし私の場合とは反対にこの冬は恐ろしい冬でなく楽しい冬である。さあ恋の傍ら何をしようとするのであらうか。

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足をもて一歩退き翅もて百里を進むわりなさか是れ
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 自分には人の持たぬ翅がある。この翅は前へ飛ぶことを知つて退くことは出来ない。退くには足を以てしなければならない。人が一歩歩く間に百里飛んでしまつたのでは調子が合はないから後退しようとするが、足で一歩退くのではどうにもならない。まづさういつたやうな不合理である。世間の凡俗と自分との距離の大きさを痛感し当惑したものであらう。例へばこんな場合がある。源氏の作者を二人に分け、宇治十帖を娘の大貳三位の作と断じたのなどは、自分には極めて明白で疑ふ余地のないことである。文章を読み破る力のある人、歌の調子又そのよしあしを判別し得る人なら誰でも気がつく筈である。それを今日迄誰一人気づくものもなく、又今日私がそれを云ひ出しても一人の同意者も得られない。当惑せずにはゐられないではないか。

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落葉ども昔住みつる木の影の写ると知るや暖き庭
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 これもいつもの万有教的観察のあらはれで、冬の日の暖かい日ざしはそのまま作者の人間の心の暖かさを呼び出し、地上一面に散らばつて落葉にまで話しかけさせるのである。

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青海波金に摺りたる袴して渡殿に立つわが舞の仕手
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 美しい若い女の子の仕舞姿をたたへるものであらう。之に続いて 
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