年の挨拶にでも来たのであらう。それを晶子さんがまあ綺麗なこととほめながら自分の前へ立たせ魚が鰭を振る形に袖をふらせて見る。先づそんな場合の歌でもあらうか。

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人の来て旅寝を誘ふ言ふ様に雲に乗らまし靄に消えまし
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 今日から見れば丸で夢の様な昔話であるが、我が日本にもさういふことの出来た時代があり、選ばれた少数のものにはそれが出来た。作者夫妻はこの頃以後少し宛それが出来るやうになつたのは何と云つても羨ましい限りで、而してそれは最後まで続き、遂に靄の中に消え去つた形となつたが、この歌は其の儘実現されたのである。

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頻りにも尋ぬる人を見ずと泣くわが肩先の日の暮の雪
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 街角で落合ふ約束だつた人がどうしても見えない、その内に雪が降り出して肩先を白くする、日は暮れかかる。全く泣きたくなつて来た。それを代つて肩先に積つた雪が泣いてくれるといふのである。之も晶子万有教の一節。

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人間の世は楽みて生きぬべき所の如しよそに思へば
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 大正十三年頃の作で、この頃は多少の余裕も生じたので、人生の明るい面を見たい心持が動いてゐたやうで、それを抒した歌が残つてゐる。この歌はその一つで、他は 人の世を楽しむことに我が力少し足らずと歎かるゝかな いみじかる所なれども我にのみ憂しと分ちて世を見ずもがな の二つである。楽しみたいが力が足りない、私にのみ辛かつたといふ風に分けたくない、人の世をよそから見ると、如何しても楽しんで生きてゆくべき所としか見えない、それが出来ないのは力が足りないからだと思ひ又いい所なのだが私に限つて、辛いのだと初めから分けて考へることを止めたらどうだらうなどと思ひ悩むのであつて、これは連作として三首併せて読まねば意味が完結しないわけだ。

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自らの心乱してある時の息のやうなる雪の音かな
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 雪の音は雨の音と異つて、聞こえるやうでもあり聞こえない[#「やうでもあり聞こえない」は底本では「やうでもあ聞こえりない」]様でもあり、淋しい様な暖かい様なあいまいなものであるが、作者はそれを心の乱れた若い女の息のやうに感じたのである。雪の音を外界から切り離して抽象的に詠むことは作者以前には蓋し無かつたであらうし、又出来ることでもない。それを作者は敢て試みたわけで、之を読んで同感し得る人から見れば成功した作といへる。

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川上の峨峨の出湯に至ること思ひ断つべき秋風ぞ吹く
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 これは大正十三年九月陸前青根に遊んだ時の作。青根の奥深く、蔵王の麓でもあらうか峨々といふ恐ろしく熱い山の温泉のあることを聞いて少し心を動かしたが、車でなど行かれる所でもないので問題にはならなかつた。そこで罪を秋風に著せて思ひ止ることにしたのである。

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何時見てもいはけなき日の妹の顔のみ作る紅椿かな
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 作者はあらゆる花を愛し、あらゆる花を歌つてゐるが、椿も亦その最も好むものの一つであつて歌も多い。蓋しこんな所にもその所因があつたのかも知れない。この歌では何時見てもといふ句が字眼である。特殊の場合に恐らく誰にでも経験のあるらしい事だが唯気がつかないのだと思ふ。それを作者がこの椿の花の場合について代つて云つてくれたのである。

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夕暮に弱く寂しく予め夜寒を歎く山の蟋蟀
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 この歌では「予め夜寒を」が字眼で之が無ければ歌にはならない。(世間ではこの歌から予めを抜いたやうな歌を作つて歌と思つてゐるらしいが、いらぬ時間つぶしである。)初秋とはいへ山の上では夜ふけは相当寒い。それを啼き初めの弱い声をきいて蟋蟀も夜寒を感じてゐると思ふのである。

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春の夜の月の光りに漂ひて流れも来よや我が思ふ人
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 久しぶりで音楽|歌《うた》が出て来た。この歌などが日本文学中の一珠玉になつて若い人達の間に日常口誦されるやうな日が早く来ればよいと思ふ。蓋し日本抒情詩はそこから前進するであらうから。

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陸奥の白石川の洲に立ちて頼りなげなる一むら芒
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 青根から降り来て白石川の川添ひに暫く車を走らせた時見た川の洲の芒である。当時のあくまでもさびれてゐた東北の姿がそこにもあらはれてゐるやうで頼りなげに見えたのである。

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別れつる鼠の色の外套がおほへる空の心地こそすれ
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 今し方男に別れて来た女の心をその上にある曇り空で象徴しようとした試
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