夕月を銀の匙と迄は或は感じ得るかも知れない。しかしいちどクリイムを食べた時私の脣に触れたので、私の脣の感触も知つてゐる筈だとまで進みうるものは先づ無からう。それが詩人の詩人たる所因である。
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恋衣|裘《かはごろも》より重ければ素肌の上に一つのみ著る
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恋衣といふ衣は裘などに比べればとても重い衣なので私は素肌の上にたつた一枚著て居るだけです。重くてとても二枚とは著られません。一枚で沢山です。
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いかにして児は生くべきぞ天地も頼もしからず思ふこの頃
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大正五六年の頃の作で、子女が皆大きくなり、学費等も自然嵩んで来る、如何にしてこの大家族を養うべきかそれのみに日夜心を砕き若くして得た名声を利用して色紙、短冊、半切、屏風などを書きなぐるなど全力を尽くすといへど幾度か自信を失はれたことであらう。その時の溜息である。
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穂芒や琵琶の運河を我は行く前は粟田の裏山にして
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大正十二年仲秋の月を石山に賞し疏水に舟を浮べて京に入られた時の作。普通疏水と云はれるものを運河と呼びかへたなどにも多少の配慮が払はれてゐる。この短い詩形の中へ当時の環境から感得した名状すべからざる混沌感を捺印するのであるから、用語は十分に吟味されなければならない。適当な用語が適当に配置されて初めて朧げながら感じの一部分が再現されるのである。用語が適当なれば適当なだけ、その範囲が拡大され、その極限に於て完全に再現されることになるが、そんなことは神技に属する。私はあの疏水を自身流れたことはないが、その心持は殆ど完全にこの歌から感得出来るやうだ。
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秋の夜はわりなし三時人待てば哀れに痩せし心地こそすれ
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これは秋も大分たけて淋しくなつた夜の心持を歌つたもので、人を待つことにしたのは心持を表現する一手段である。それに依つて秋の夜の心持が哀れに痩せた若い女の形となつて顕はれてくるのである。
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粟津より石山寺に入る路の白き月夜となりにけるかな
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瀬田川に沿ひ少しく彎曲した気持のいい遊歩道を仲秋明月の下逍遥する純な混り気のない心持が其の儘再現されてゐる。恐らくかへるべき何物もなく取り去るべき一字もない。
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花咲きぬむかしはて無き水色の世界に我とありし白菊
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これほど新らしい、又縹渺として捕へ難い趣きもあり、又一種の哲理のやうなものをさへ含んでゐる歌は晶子さんにさへ一寸珍しい。日本のやうな局限された天地に置いておくべき詩ではない。といつて又世界の諸民族中この歌の分るのは或はフランス人位のものかも知れないといふ様な気もする。水色の世界とは即ちロゴスであり混沌であり、万法帰源の当体である。その中で晶子さんと白菊とがものの芽として共存してゐた。それが時至つて一つは詩人として日本に生れ、一は白菊として今日その花を著けここに再び相会したのである。
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石山の観月台に立ちなまし夜の明けんまで弥勒の世まで
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弥勒の世とは五十六億七千万年後の世であるから永遠といふ言葉のよき代用である。西洋風にいつたら聖蘇再誕の日までとなる。誰でも、又いくらよい月でもまさか夜明しも出来ない。その内厭きても来るし眠くもなつて観月台から引き上げたであらう。しかし唯引き上げたのでは面白くない、何とか捨ぜりふを残したい。この歌は即ちその捨ぜりふである。それがみろくの世などいふ結構な説話があるのでものになつたわけだ。
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もの憎む心ひろがる傍にあれども君は拘はりも無し
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その起りは何にあつたのか、初めは一寸したことからであらうが、心が変調を来したと見え次第に何もかも憎らしくなつて来た。それなのにそれに気がつかずにのんきな男心はすましてゐる。よくそんなことで恋が出来るものだ。先づこんな所であらうか。これはしかし恋人同志の間だけではなく、一般の対人現象として常に私共の体験する所である。
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山早く月を隠せば大空へ光を放つ琵琶の湖
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自然現象を物理的に詠じたものには違ひない。月が西山にはいつてしまへば観月台上は蔭となり、見るものは東方琵琶湖面から反射する月光のみとなる。しかし大空へ光を放つとは大した云ひ方で、その為にこの物理現象も詩化されるわけである。
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紫の魚あざやかに鰭振りて海より来しと君を思ひぬ
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若い女が紫好みの春著を著て新
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