はうと試みたのが「火の鳥」以後の作者の態度である。これなどもその一つで恋人の訪問をもの静かに美しく描くものである。

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繭倉に蚕《こ》の繭ならば籠らまし我が身の果を知られずもがな
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 これは大正十四年正月下諏訪温泉の亀屋に滞在中の作。あの辺に多い繭倉を見ての作。しかし感じは蛹の繭に籠つて遂にその姿を見せない所から自分の最後の姿もさういふ風に隠したい気持が動いたのであらう。それを拡げて繭倉へ持つていつたのであらう。

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津の国の武庫の郡に濃く薄く森拡がりて海に靄降る
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 大正六年の夏六甲の苦楽園に滞在中の作。これがあの辺に遊ばれた最初の行であつたやうだ。まだあの辺が開けてゐなかつた当時で、その中に苦楽園が唯一つの存在であつた。当時の森に掩はれてゐた六甲の傾斜面がよく写されてゐる。

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諏訪少女|温泉《いでゆ》を汲みに通ひ侯松風のごと村雨のごと
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 上諏訪と違ひその頃の下諏訪は温泉の量が極めて少く、塩汲女が海水を汲んで帰るやうにある町角の湯口から湯を汲んでゆくのが見られた。それを謡曲の松風に通はせたものであるが、それによつて反つて光景が彷彿するのである。

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夕暮の浅水色の浴室にあれば我身を月かとぞ思ふ
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 作者この時四十歳、まだ若かつたしめつたに温泉などにも行かず、苦楽園の浴室さへ作者には珍しかつたと見え、その心の躍つた様がよくあらはれてゐる。

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大船も寄らん許りの湖の汀淋しき冬の夕暮
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 小波が騒いでゐる許りで何物もない大きな湖水を見て居ると大洋を行く様な大船が今にもそこへ這入つて来さうな気がする。さういはれてみるとさういふ気のする(それ迄気がつかなかつたが)冬の夕暮の汀の景色であつた。同行した私はその時さう思つてこの歌を読んだものである。

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自らを証《あかし》となして云ふことに折節涙流れずもがな[#「もがな」は底本では「もかな」]
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 私の経験では斯う思ふと云ふ様なことを挟んでは話を進めて行くのであるが、やはりその時の事が思ひ出されて折節涙が出て来て困つた。せめて冷静な話の間だけは涙が出なければと思ふ。

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夜の二時を昼の心地に往来する家の内かな子の病ゆゑ
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 子が重病に罹つた場合どの親でも経験したことを代つて云つて貰つた歌である。かうは誰にも云へなかつたのである。

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一言の別れに云ひも忘れしは冬の月夜の凄からぬこと
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 一言のは別れのあと、云ひもの前へ来る句で、一言云ひ忘れたのである。それは何かと云へば、冬の月夜は少しも凄いものでないといふことである。理由はいはずして明白だ。君と一しよだつたから。

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しどけなくうち乱れしも乱れぬも机は寂し君あらぬ時
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 之は富士見町の家の書斎の光景、離れの様に突き出した狭い書斎に夫妻は机を並べて仕事をしてゐた。それで先生が居ない折は、乱れた机と乱れない机と並んでゐる様子が一角を欠くが故にいかにも寂しく見えるのである。

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わが肩と建御名方の氏の子の島田と並ぶ夜の炬燵かな
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 山国の冬は何事も炬燵がその中心である。建御名方は諏訪明神の本体であるからその氏子の島田といふのは諏訪芸者といふことになる。一晩小宴を開いた所芸者が這入つてくるといきなり炬燵にすべり入つた。晶子さんの隣へ坐つた子は小さい子で見ると島田が肩の処にある。炬燵は毎日這入つてゐて珍しくないが芸者の這入つたのが珍しくてこの歌が出来たわけである。

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古へを持たず知らずと為ししかど昔のものの如く衰ふ
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 古人の糟粕を嘗めるを屑しとしない故に私は古い物を持たない又それを知らないといつて新風を誇つて来たのである。それが如何であらう、この頃のやうに衰へて来ると昔の人の衰へた様を詠じたのと少しも変らない。

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師走来て皿の白さの世となりぬ少女の如く驚かねども
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 十二月となれば世の中がざわつき、心持に落付きがなくなり皿の白さの持つ荒涼たる光景が現出する。もしそれが少女の新鮮な感覚なら驚きに値しようが、古女にその驚きはないものの、興ざめた次第である。之も印象歌の一例。

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夕月を銀の匙かと見て思ふ我が脣も知るもののごと
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