人も物の歎かる
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 この場合破つた一つの戒と認めらるるのは不飲酒戒で、破らないも同じことである。さういふ真面目な正しい落度のない人も物を歎くとは如何したことであらう。仏の教へも頼るに足りない。

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足る如く春吹く芽をば見歩きぬ高井戸村の植米と我
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 植米はもし生きてゐたら八十位の御爺さんではなからうか。釆花荘の植木は全部この御爺さんの指図で麦畑の中へ植ゑられたのである。私の今居る家のも亦殆どさうである。実にいい爺さんであつた。その好々爺と連れ立つて偶※[#二の字点、1−2−22]東京から普請を監督に来た夫人が植ゑられた許りのそこらの庭木を見て歩く風貌が目に見えるやうである。恋などとは何の関係もない心の満足である。

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天人の一瞬の間なるべし忘れはててん年頃のこと
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 思へばこれ十余年せまじき恋をした許りに私の嘗めた辛酸労苦思ひ出すさへ堪へられぬ、きれいさつぱり[#「さつぱり」は底本では「さぱつり」]と皆忘れてしまひたい。何忘られないことがあらうか、十余年などは命の長い天人から見れば一瞬間のことに過ぎない。而して今から新らしい瞬間を作りませう。

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あな冷た唐木の机岩に似ぬ人の涙の雫かかれば
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「似ぬ」はこの作者が好んで用ひる語尾の変化で、私なら決して用ひないものだ。私なら「似る」といふであらう。何故なら似ぬといふと似ないといふ意味が紛れこむ虞れがあるからである。作者はしかしさういふ感じがしないと見え至る所にこの変化を用ひてゐる。今まで倚つてゐた黒木の机に涙がかかつたので急に冷えて岩ででもある様に感じられるといふのであらうか。或は相対する人の涙がかかつてさう感ぜられるといふのであらうか。

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わが街へ高き空より雪降りぬ寂し心の一筋の街
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 之は象徴詩である。何とでも読者が勝手に映像を作るが宜しい。「高い空」といふ一つの観念を思ひ浮べ、夏に「寂しい一筋の街」を思ひ浮べる。その二つを雪でつなぐのである。さうするとそこにぼんやりした映像が浮んで来る。それは何を象徴するものであらうか。

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侮られ少し心の躍りきぬ嬉し薬に似ぬものながら
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 若さが退くと共に心の平静が得られるやうになつたが、同時に心躍りもしなくなつてそれは我ながら寂しいことであつた。それに如何であらう。私を侮るものが出て来た。私は人の侮りを受けた体験が今度初めてで少し心が躍つて来て嬉しい。薬と侮りとは凡そ似てゐないがその作用は相類してゐないでもない。

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夏の夜の鈍色の雲押し上げて白き孔雀の月昇りきぬ
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 夏の夜の月の出の印象で、まことにはつきりしてゐる。象徴でも写生でもない、唯印象を伝へんとするもので、この作者以外には余り例が多くない風だ。拙くやると比喩になつてしまつて著しく価値が低下する。この風は先づ余りやらぬ方が賢い。

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かぐや姫二尺の桜散らん日は竹の中より現はれて来よ
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 二尺の桜といふから鉢植の盆栽の桜か何かであらう。その可哀らしさ美しさは如何見ても昔話のかぐや姫の化身としか思はれない。そこでこの歌になるので、この桜が散つたらす早く竹の中に忍び入つて、今度は人間のかぐや娘として出て御いでなさいといふのであらう。不思議な空想である。

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そのかみの日の睦言を塗りこめし壁の如くに倚りて歎かる
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 この壁を見るとその中には君と私との中に交はされたありし日の睦言が一杯塗りこめられてゐる様に思はれる。この壁に倚つて凡てが話されたからである。何といふ懐しい壁だらうと思つて倚りかかつて私は泣くのである。

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家にあり病院にある子と母の隔たる路に今日は雨降る
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 作者は十一人の子女を育てられたが最も可愛がられたのは長男の光さんと末娘の藤子さんとで、特に藤子さんは一人で十人分位の慈愛に浴したやうだ。その藤子さんがまだ小さくて病気をし、近所の小児科病院に入院させた時の歌である。母子の情洵に濃やかで雨のやうに降りそそぐ感じがする。なほこの時の歌二首を上げる。 絵本ども病める枕を囲むとも母を見ぬ日は寂しからまし 人形は目開《あ》きてあれど病める子はたゆげに眠る白き病室

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仄かにも煙我より昇るとて君もの云ひに来給ひしかな
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 恋を卒業した作者が今度は心を溌まして、恋の明るい一面を美しく歌
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