の心地こそすれ
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 作者は自ら白桜院の院号を選んだだけに桜を賞すること常人に過ぎ、その癖染井吉野を木のお化けだとけなしつつも、沢山の歌をよんでゐる。その第一は 天地の恋はみ歌に象どられ全かるべく桜花咲く といふので桜花の気持がよく出てゐる。次に 朝の雲いざよふ下に敷島の天子の花の山桜咲く といふのがあるが、之は盛な様子を十分に歌つたものだが余音に乏しい憾みがある。その第三がこの歌で、この歌では一歩深く入つてその夢の様な美しさの象徴されてゐて申し分がない。

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尽く昨日となれば百歳の人も己れも異ならぬかな
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 百歳の御婆さんとまだまだ若い私との違ひは現在のあり方であつた。私はもう若くないに違ひなかつたが、まだまだ色々のものが残つてゐて全部が全部過ぎ去つた訳ではなかつた。それがどうであらう。全部を全部忘却の過去へ送つてしまつた今となつては百歳のお婆さんと何の違ひがあらう。現在零である点に於て全く同じことになつてしまつた。 悲しみも羊の肝の羹も昨日となれば異ならぬかな[#「かな」は底本では「からな」](草の夢)

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ただ一人柱に倚れば我家も御堂の如し春の黄昏
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 これは歌集大正七年出版の「火の鳥」にある作である。この「火の鳥」は晶子歌に一時期を画するもので、即ちこれ以後の歌は作者のいふおだやかな人間になつて作つたもので、それ迄のものとは厳然と区別される。激動期は既に去つた。柱に倚つて一人静観しうる春の夕となつた。我が家さへ神聖な御堂の様に思はれるのであつた。

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身の弱く心も弱し何しかも都の内を離れ来にけん
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 昭和二年荻窪の家に移られた当時の歌で余程心細かつたものらしい。遠い昔の女性さへ偲ばれる哀調を帯びて珍しく弱音を吐かれたものであつた。なほ同じ時の歌に 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな といふのもある。

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うつむけば暗紅色の牡丹咲く胸覗くやと思ふみづから
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 唯一寸うつむいただけでこれだけの想像が浮ぶのである。常に動いてやまない豊富な詩人の思想感情が窺はれる。さうして若い時から中年期、成熟期から晩年とその想像力の描き出す形は少し宛違つて来てはゐるが最後迄涸渇することを知らなかつた。

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衰へてだに悲しけれ死ぬことを容易《たやす》きものに何思ひけん
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 作者は一面激しい感情の持主であつたから折にふれて幾度か死を決したこともあつたらう。それを初老といはれる五十近くになつて顧みたものであらう。然るにさういふ口の下から、相当の事情があつたにせよその後幾年もなくまた死を決せられたやうで、その時はこんな歌を詠んで居る。 わが在りし一日片時子の為めに宜しかりしを疑はぬのみ 又 汝《な》が母は生きて持ちつる心ほど暗き所にありと思ふな しかし結局思ひ過ぎであつた。しかしそれを最後としてあとは一二囘の波瀾はあつたが比較的静かな境遇に入られたやうである。

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自らは半人半馬降るものは珊瑚の雨と碧瑠璃の雨
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 フアウスト第二部に人首馬身のヒロンがあるが、この半人半馬は女性で詩歌芸術の世界、その世界には紅い珊瑚の雨と碧い瑠璃の雨とが入り混つて降つてゐる、その中を縦横無尽に駈け廻るのである。こんなロマンチツクな色彩濃厚な幻想でありながら少しも若い頃のやうなけばけばしさがなく、ゆつたり落付いてゐるのはやはり作者の心の落付きを反映してゐるのであらう。

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日昇れど何の響きもなき如し夏の終りの向日葵の花
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 人の漸く老いて好刺戟あれども何の反応も示さなくなつた様子を象徴するものであらう。これも五十頃の作で体験に本づくこと勿論である。

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君が鳥わが知らぬ鳥二つ居て囀りし夢また見ずもがな
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 私の嫉妬はずゐ分激しかつたがこの頃はもう争ひの種もなくなり、至極平静な生活を続けてゐる。君の鳥が他の女の鳥と囀り交す様な夢でさへもう見たくはない。

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知り易き神の心よ恋てふもそれより深きものと思はず
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 神は愛なり、この位よく分ることは私にはない。なぜなら私の心は愛で一杯になつてゐて、何ものをも愛し得るからである。恋の如きもこの愛より深いものとは私は思はない。こんなことの云へるのも一面年老いて最早当時の情熱など思ひ出せないからでもあらう。

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ありと聞く五つの戒の一つのみ破りし
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