有い作でなければならない。もし詩人が空想してくれなければ決して味はふことの出来ない感想である。而してとても面白い感想ではないか。この位の余裕は常に誰の心にもあつて欲しいものである。
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君と我が創造したる境にて一人物をば思はずもがな
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この家この環境は君と我と二人して合作創造したものである。物思ひがあるなら二人して分つべきであつて、一人でくよくよ物を思ふ法はない。それなのに二つに分けることの出来ぬ物思ひが次々に出て来るのは如何したことであらう。したくもない物思ひである。
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婚姻の鐘鳴り親はふためきぬものの終りかものの初めか
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昭和元年七瀬さんが山本直正氏とカトリツク教会で婚姻式を挙げた時の歌。これが作者の経験した子女の婚姻の最初のものであつた丈その印象も深かつたものと思はれ、自己の手から、その手しほにかけたものの一人が初めて引き離された。それは子女としてのものの終りである、しかし新生活の発足であるから同時にものの初めでもなければならない。そこに親の心がふためき迷ふのである。
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魚の我水に帰りし心地して湯舟にあれば春雨ぞ降る
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魚になつた様な気持がして、とは誰もがいふであらう、入湯と春雨、よく調和したいい気分である。この場合しかしさう云つたのでは鈍い感じしか起らない。それを「魚の我水に帰る」といへば、人の意表に出て新鮮な感想を喚び起すことになる。ここらは学んで出来ることであるから歌を作る人の参考までに申し上げる。
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湖の奥に虹立ちその末に遠山靡く朝朗かな
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大正十五年五月日光に遊ばれた時の作。湖は中禅寺湖で、湖畔の宿から見た朝の景色で、調子のすらりと整つた気持のよい歌である。
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春ながら風少し吹き小雨降る夕などにも今似たるべし
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今私達の間は大体に於て春の様ななごやかさが支配してゐる、しかしその中にも風が少し許り吹き、雨が少し許り降るけはひがなしとはしない。しかし春の夕方雨風の少しあるのも必ずしも悪くはないとも云へる。私達の中は今はその辺の処で決してまづいものではありません。
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山山と湖水巴に身を組みて夜の景色となりにけるかな
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同じ中禅寺湖畔の夜色迫る光景。山と湖水と又山と巴に身を組んで夜となるとは恐ろしい程の表現で、それによつて光景は直ちに読者の脳裏に再現される。詩人は魔法使ひでもある。
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拝むもの拝まるゝもの二つなき唯一体の御仏の堂
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晶子さんといふ人は矜恃の高い人であつたから、人の感情を真似たり、共通の思想を我が物顔に取り入れたりはしなかつた。然るに此の歌を見るに浄土教信仰の極致が示されてゐる外何もない。一首の道歌とも見れば見られ、蓋し晶子歌中の珍物である。まさか晶子ともあらうものが真宗坊さんの御説教を聞く筈もなしその教理を取り入れる筈もない。然らばそんな既成観念とは関係なく晶子さんの頭に直接にひらめいた実感と見るべきである。然らば実に驚くべき直覚力と云はなければならない。私などは観念的には学んで知つてゐるが、浄土教信仰に於てそんなことが容易に実現されようとは信じない。然るにそれを老婆か誰かの拝仏の姿を見て之を直覚し得たのだから驚かされる。
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物思ひすと云ふほどの唯事の唯ならぬ[#「唯ならぬ」は底本では「唯よらぬ」]世も我ありしかな
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誰でも若い内は物思ひ位はするだらう、そんなことは何でもない唯事に過ぎない。しかし私の場合にはその唯事が唯事でなくなる様な非常事態もよく起つたものだと今はすつかり学者になりすましたありし日の情熱詩人が静かに往時を囘顧するものであらう。
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後の世を無しとする身もこの世にてまたあり得ざる幻を描く
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既成宗教を信じない作者は来世を信ずることはない。それなのにこの世であり得ざる幻を描いて喜んだり悲しんだりしてゐる。それは凡愚の迷信にも劣る愚かしさであるがどうにもならない。
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死ぬ日にも四五日前の夢とのみ懐しき儘思ふあらまし
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この堪らない懐しさ私は忘れないであらう、例へば死ぬ時が来ても四五日前に見た夢のやうに思ひ浮べることであらう。旅の歌が作の全部となつた頃僅に見出される純抒情詩で縹渺たる趣きはあるが中味の捕へようのないものが多い。
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山桜夢の隣りに建てられし真白き家
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