如く思ひ乱れてゐるやうだと※[#言+虚、第4水準2−88−74]を云つてゐる相手に深く同情する歌でもあらうか。
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旅人に呉竹色の羅を人贈る夜の春の雁がね
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チチハルの大人呉俊陞の若い夫人李氏に招かれ嫩江の畔の水荘に一夕を過した時、御別れに美しい虹の様な支那の織物の餞を受けた。先程からシベリアに向ふ春の帰雁が江の上をしきりに鳴いて通る。
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白き鶏罌粟の蕾を啄みぬ我がごと夢に酔はんとすらん
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阿片は罌粟の実の未だ熟さないのを原料として採るので、花の咲かない蕾には無いのかも知れない、しかし下向きに垂れてゐる蕾は反つて重さうでその中には阿片がつまつてゐさうに見える。それを鶏が来てちよいと啄んだ。今にこの鶏も私のやうにその毒に酔つて沢山夢を見ることだらう。
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哈爾賓は帝政の世の夢のごと白き花のみ咲く五月かな
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私は明治四十三年頃帝政の世のハルピンに一度遊んだ事があつてその公園の夜の賑はひを知つてゐる。夫人の行かれたのは今のソ※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]エトになつてからではあるが、尚相当当時の俤を存してゐたに違ひない。その後満洲事変直後に私の行つた時は、その風貌は全く違つてゐた。その後は更に急変したことであらうから、この歌などは今では当時の記録のやうなものだ。
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小鳥来て少女の様に身を洗ふ木蔭の秋の水溜りかな
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小鳥の水を浴みてゐる姿に何となく羞らふ様子が見える、それを少女の様にと云つたのでその観察の細かさ詳しさはやはり作者のものである。
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マアルシユカ、ナタアシヤなどの冠りもの稀に色めく寛城子かな
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寛城子は長春のロシヤ側の駅名で今日ではとうにそんな駅はあるまいが、当時でも随分なさびれ方であつた。マアルシユカ、ナタアシヤはロシヤ少女の尋常の名で、ロシヤ風の冠りものをした女が稀に歩くほか人の気はひも感ぜられない光景を描くものであるが、その不思議に柔い響きを持つロシア名を並べて雰囲気を醸し出した所流石に大家の筆触は違つたものだ。
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寒げなる筵の上に手を重ね瞽女《ごぜ》ぞいませる心覗けば
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物乞ひ女の哀れな姿をふと心内に認めて驚いた形である。しかしよくよく見ればこの乞食女は誰の心中にも居るのである。
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公主嶺豚舎に運ぶ水桶の柳絮に追はれ雲雀に突かる
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公主嶺にはもと農事試験所があり、種畜場を兼ねてゐたので支那豚を改良する目的の立派な豚舎があつた筈だ。その豚舎へ苦力が水桶を運ぶ。その周囲を柳絮が舞ひ、雲雀が縫ふ様に飛んでゆく。満洲らしいのびのびした光景である。日本ではそんな低い所を雲雀は飛ばない。日本なら燕であるべき所が満洲では雲雀なのであるが、雲雀に突かれるとは面白い。
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わが横に甚《いた》く頽《くずほ》れ歎く者ありと蟋蟀とりなして鳴く
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蟋蟀の鳴くのを聞いてゐると、私の横に人がひどく泣いてゐるが、可哀さうなわけがあるのだからと取りなし顔にいつてゐる様に聞こえる。この頃即ち大正の初めの頃の歌はその後に比しては勿論、それ以前に比しても少しく劣つてゐるやうに思へるが、この歌などは立派なもので、他の時期の秀歌に比し少しも遜色はない。
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重なれる山は浅葱の繻子の襞渾河は夏の羅の襞
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奉天から撫順へ曲る渾河添ひの景色である。折から初夏の山の色水の色の淡い取り合せが色彩の音楽のやうに美しかつたのであらう、その通り歌にあらはれてゐる。
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少女子は夏の夜明の蔓草の蔓の勢ひ持たざるもなし
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たとへば朝顔の蔓のやうにか細く柔いが、その物にしつかりからみついて夏の夜明にずんずん延びる勢ひは即ち少女の勢ひで誰もこれを押へることは出来ない。
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山桑を優曇華の実と名づけたり先生いかに寂しかりけん
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尾崎咢堂先生の軽井沢の莫哀山荘は夫妻が吟行の途次必ず立ち寄る処で、私も一度御伴をして行つて咢堂先生も加はつて席上の歌を作つたことがあつた。この頃既に先生は何の党にも属せず清教徒として政治的に孤立し大半ここに閑居して居られた形であつた。炭窯まであつた広い山荘を歩き廻つた時、山桑が紫の実をつけてゐるのを先生が戯れにうどんげの実といふ名をつけて珍重する由など話されたのであらう、それを直ちに主人の現在の心境を写す
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