と名づけ仙骨を帯びた道士がゐて夫妻等を迎へたが、夫人は之等道士達の風貌にいたく好感を寄せてゐる。この歌はその現はれで、断ち難き恩愛を断ち切つて山に入つた道士をその著てゐる青服を借りて称へたものである。

[#ここから2字下げ]
象を降り駱駝を降りて母と喚びその一人だに走りこよかし
[#ここで字下げ終わり]

 これはロンドンの動物園で子供達が象や駱駝に乗つて遊んでゐるのを見て作つた歌で、一人位は母さんと呼びながら跳びついて来さうなものだといふ悲しい母の真情がその儘吐露されてゐて、どうでも人を動かさずにはやまない慨がある。

[#ここから2字下げ]
道士達松風をもて送らんと云ひつる如く後ろより吹く
[#ここで字下げ終わり]

 無量観を出て帰途につくと後から風が吹いて来た。分れ際に道士達が松風を吹かせて山の下を送つて上げませうと云つた様な趣きである。仙骨を帯びた道士の挨拶迄現はれてゐて面白い。

[#ここから2字下げ]
手の平に小雨かかると云ふことに白玉の歯を見せて笑ひぬ
[#ここで字下げ終わり]

 表情沢山な歯並みの美しい巴里女は、一面耽美主義者でもある作者の大に気に入つたらしくこの歌などその一つのあらはれであらう。

[#ここから2字下げ]
旅人を風が臼にて摺る如く思ふ峠の大木のもと
[#ここで字下げ終わり]

 これも千山から降りて来た時の光景であるが、満洲の風がどんなものであるか窺はれて面白い。

[#ここから2字下げ]
いか許り物思ふらん君が手に我が手はあれど倒れんとしぬ
[#ここで字下げ終わり]

 ミユンヘンへ行つた頃の夫人のノスタルヂアは余程昂進してゐてこの歌の通りであつたらしく幾許もなくマルセイユから乗船してまた一人で帰朝されたのであつた。

[#ここから2字下げ]
夕月夜逢ひに行く子を妨げて綿の如くに円がる柳絮
[#ここで字下げ終わり]

 遼陽の白塔公園辺の見聞であるが、柳絮の飛ぶ所なら満洲だらうが、フランスだらうが構はない。柳絮と逢引との間に感情の関連を発見した歌である。

[#ここから2字下げ]
飛魚は赤蜻蛉ほど浪越すと云ふ話など疾く語らまし
[#ここで字下げ終わり]

 印度洋の所見であるが、帰心箭の如く、頭の中は子供のことで一杯だつた。そこで印度洋上の飛魚も日本の赤とんぼになる訳である。

[#ここから2字下げ]
尺とりが鴨緑江の三尺に足らぬを示す蘆原の中
[#ここで字下げ終わり]

 安東で鴨緑江を見に行つた。岸には蘆が繁つてゐる。その蘆の一本に尺取虫がゐて、しきりに茎を上つて行く、それを見て居て分つたことだが、この国境の大河鴨緑江の幅も尺取のはかる茎の長さを以て測れば三尺にも足りないことであつた。虫の世界ではさういふ風に物をはかるのだらうが面白いことである。虫に代つて鴨緑江の幅を測量したわけである。

[#ここから2字下げ]
子を思ふ不浄の涙身を流れ我一人のみ天国を墜つ
[#ここで字下げ終わり]

 芸は長く命は短しといふが、芸術の都巴里を天国とすれば、私の場合には子を思ふ人間性即ち短い命の方が勝ちを占め、その為一人だけ天国を追はれて帰つて来たのである。

[#ここから2字下げ]
江の中の筏憩へる小景に女もまじり懐かしきかな
[#ここで字下げ終わり]

 大陸の大きな河を流れる筏は頗るのんびりしたもので、日本の筏とはその心持が丸で違ふ。日本の筏に女が乗る事などは決してあるまい。採木公司の筏がついて憩んでゐるのを見ると女が乗つてゐる。それが女性である作者の目に珍しく懐しく映つたのである。

[#ここから2字下げ]
白玉は黒き袋に隠れたりわが啄木はあらずこの世に
[#ここで字下げ終わり]

 啄木を傷んだ歌である。我々の仲間でいへば啄木はやはり歌が旨かつた。私などはいつも啄木には叶はないと感じてゐた。しかし友人としては私の方が少し兄貴格であつたので、可哀らしい弟分としか映らなかつた。今でも啄木を思ふと両国の明星座の楽屋で鶯笛を吹いた可哀らしい啄木が浮んで来る。この歌で白玉に比較されてゐる啄木は、私の記憶にある彼その儘で、晶子さんも同じ様な気持で啄木に対してゐたのではないかと私には思はれる。

[#ここから2字下げ]
嫩江を前に正しく横たへて閻浮檀金の日の沈みゆく
[#ここで字下げ終わり]

 チチハルで見た満洲の赤い夕日であるが、その色は閻浮檀金といふ金中の精金、その前に興安嶺を発した嫩江が真直ぐに流れて居る光景。斯ういふ光景も最早日本人の目には当分映るまい。

[#ここから2字下げ]
心いと正しき人がいかさまに偽るべきと思ひ乱るる
[#ここで字下げ終わり]

 どう※[#言+虚、第4水準2−88−74]をいふべきか、私にも覚えがあるが、心の正しい人だつたらその悩みは一しほ深からう。可哀さうに麻の
前へ 次へ
全88ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング