中ででもしたら皆吹き出してしまつたであらう、これはさういふ時代に出来た歌である。初めて巴里で斯ういふ飲み方のあることを知つて面白く思つたに違ひない。その心持がよく出て居る。

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霧島も霧の如くに時流れ昔の夢となりぬべきかな
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 試みに身を将来に置いて現在をふり返るわけで億劫なことをやつたものだ。又縁語を使ふことも枕言葉やかけ言葉と共に明治以来禁断同様であつたが、之も作者は構はずに使ふのである。

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ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟我も雛罌粟
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 作者夫妻の巴里に遊んだのは欧洲大戦以前の爛熟時代で、私は之を知らないから大に羨ましく思つてゐるが、五月のフランスはこの歌の様に自然も人も恋愛の渦巻に巻き込まれた一個の花園であつたに違ひない。

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闇広く続ける中の市比野を探りて借れる草枕かな
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 市比野の温泉に著いて見ると、既にして薩摩平野は真暗な闇に掩はれてゐて、その中で僅か許りの灯を頼りに探り当てた様な市比野であつた。そこ許りが少し明るい日本の片隅の小さな温泉の心持がはつきり出て居る。

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物売りに我もならまし初夏のシヤンゼリゼエの青き木の下
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 五月のシヤンゼリゼエの大通りは、両側のマロニエの街路樹が花をつけ、小さいシヤンデリエヤを一面に飾り立てたやうに見える。さうしてエトアルからコンコルドまで何キロかの間それが真直ぐに続く光景は洵に夢の様に美しい。その木の下には花売り、新聞売り、くだもの売りの御婆さん達娘達が嬉々として生を楽しんでゐる。東洋の旅の女もじつとしては居られないわけだ。

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久見崎の沙の斜面を打ちし如打たざりし如晴れし雨かな
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 小舟を川内河口に浮べ長く海中に突き出した沙の堤防の様な久見崎に遊んだ。その途上軽い夕立がしてやがて晴れてしまつた。著いて見ると沙が少し濡れて居る、しかしそれは乾いてはゐないといふ程度であるその心持を詠んだものであらうか。

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月射しぬロアルの河の水上の夫人ピニヨンが石の山荘
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 巴里滞在中の夫妻は和田垣謙三博士に連れられ同博士入魂のピニヨン夫人といふ人のツウルの山荘に泊したことがある。山荘といふのであるからツウルの町から尚遡つた川上にあるのであらう。その石の山荘に射した異国の月は、酔ふ様な初夏の夕とはいへ、旅愁を誘はずには置かなかつただらう。

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逃げ水の不思議を聞けど驚かず満洲の野も恋をするのみ
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 昭和三年五、六月夫妻は満洲に遊んだ。これから暫くその時の歌が出て来る。大石橋から営口へかけた沙地では時折例の武蔵野の逃げ水の様な現象が見られる、理由はよく分らないと人のいふのを、作者は心の中で、何の不思議があるものか満洲の野が恋をしてゐるだけで、人を誘惑しておいでおいでをしてゐるわけだと微笑しながら聞く歌である。

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昼の程思ひ沈むも許すべし夜は人並に気の狂へかし
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 その頃の巴里の夜は世界の歓楽境を現出し、カルチエ・ラテン辺の小カフェエでも特に美術生の巣であるだけ相当の狂態が見られたものであらう。既にして夫人は郷愁にかかつて沈み勝ちであつたらしい。それを先生や梅原君などに連れられてカフェエに行つて見るとその通りである。せめて夜だけでもあの人達の様に気が狂つてくれたら心も楽にならうものをと思ふのであつた。

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浅緑梨の若葉のそよぐ頃轎して入りぬ千山の渓
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 湯崗子温泉から東方五里の処に千山がある。満洲第一の勝地と聞いて、わざわざ轎の用意をして貰つて登山した。さうして多数の佳什を残したが、その心の喜びが一見報告のやうなこの歌にもよく出て居る。

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何れぞや我が傍に子の無きと子の傍に母のあらぬと
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 今私が巴里で斯うして居ることは、三千里外に母と子とを引離して居ることであるが、何れの側が一番寂しい辛い思ひをして居るのであらう。そばに子のゐない私か、それとも母の居ない麹町の子供達か。心にもない日を送りたくない為に私は思ひきつて夫の側へ来たのであるが、それは同時に子供達から遠ざかることとなつて志と違つてしまつた。夫人の郷愁はここから生じて遂にまたまた一人で帰朝してしまつたのである。

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無量観わが捨て難き思ひをば捨て得し人の青き道服
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 千山には仏寺の外に道教の廟観がある。無量観
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