拠を見せるであらう。
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過りて病を得たり生れ来ていくそのことを過りて後
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病気にかかつた期会[#「期会」はママ]に過去を顧ると私は生れ落ちてからどれだけ多くの過ちを犯したことであらう、今日斯うして居るのもそれらの過ちの集つた結果である。而して最後の過ちが今度の病気である。人生とは私の場合には畢竟過誤の別名であるらしい。
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三味線の一の絃のみ掻き鳴らし時雨通りぬ文書ける時
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巴里の夫の所へ遣る文を書いてゐるとばらばらと少し鈍い音の時雨が通つた。三味線の一の絃の感じである。
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塩の湯の浅き所に腹這へる二人の女奔流と月
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霧島の明礬温泉の夏の月夜の風景。湯滝が落ちて奔流となつて溢れてゐる、女が二人腹這ひになつてつかつて居る、昼の様な月がその上を照してゐる。こんな光景が浮ぶが果して如何あらうか。表現法が面白いから抜き出した。
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わが泣けばロシヤ少女来て肩撫でぬアリヨル号の白き船室
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作者が渡欧は大正元年五月で、三十六歳、往きは西伯利亜を通つた。アリヨル号は敦賀浦塩間のロシヤ側の定期船。例の涙脆い作者は何に感じてか船室で泣き出した、さうすると可哀らしい女ボオイが来て肩を撫でてくれた。三十六歳になる当時既に世界に名を知られてゐた女詩人の肩を名もない少女が慰め顔にさするのだから洵にほほゑましい光景である。
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我が友の弱き涙の一しづく混りし後の寒き温泉
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湯に浸りながら四方山の話をしてゐると友達の目からほろりと涙がこぼれた。友達の弱い心から落ちた一雫である。それを知ると温泉が急にぬるくなつたやうに思つた。これも晶子さんでなければ詠めない歌だ。弱き涙といふが如き句でさへその通りであつて、豊富な内容を唯一言で簡潔に表現してゐるのである。
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風吹けば右も左も涯知らぬ水の中なる芦の葉光る
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之はバイカル湖の景色であるが、その調べの持つ寂しさは異境を通過する旅人の心が自ら反響してゐるのであらう。
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月日をばよそに雲涌く霧島の山にありとも告げずあらまし
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昨日といはず今日と云はず朝と云はず昼と云はず西からも東からも雲が涌いて変幻限りない様相を呈する霧島に来て居るとでも書いたら子供達は心配するだらう、そんなことは書くまい。
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夕ぐれは車の卓の肱濡れぬ胡地の景色の心細さに
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胡地はシベリヤである。私も一囘シベリヤを通過したことがあるが、風光明媚な内地の景色に慣れてゐる旅人が朝夕シベリヤの荒涼たる風貌に接する場合、特にそれが感覚の鋭敏な女の一人旅である場合、洵に想像に余りがある。当時大連にゐた私は夫人のこの壮挙を勇気づける為にハルピンに向け電報を打つたことがあるが、よくも決行されたことであつた。
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山の台対する海はさしおきて心惹かるゝ青蓬かな
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霧島温泉のある山の台からはその中に桜島の浮く鹿児島湾の東の水面が遥に展望される。しかしそれはそれとして、展望台に生えてゐるつまらない青蓬が私の心を惹く、大方武蔵野のそれを思ひ出させるからであらう。
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初夏やブロンドの髪黒き髪ざれごとを云ふ石のきざはし
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欧羅巴で妙なのは女の髪の色のまちまちなことであるが、特に巴里では黒髪の割合が多い。この歌では半々になつてゐるが、それ程でない迄も東洋人たる作者はなつかしく黒髪の方を見たことであらう。この石段はどこであらう、その近くに居たと思はれるリユクサンブル絵画館のそれでもあらうか。
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霧島にあれど子等ある武蔵野の家を忘れず都を忘る
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もし都を忘るといふ結句がなかつたとしたら如何であらう。その位な歌なら誰にでもどこででも作れる。しかしこの結句を加へることは容易に出来ることではない。又その反対に都を忘るといふ事だけであつたら之亦誰にでも出来る。忘不忘両者の並ぶ所が珍しいのである。荻窪の家がずつと郊外にあつて東京といふ観念から逸脱してゐることもこの歌を作らせた有力な動機ではあつたらうが。
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紅の杯に入りあな恋し嬉しなど云ふ細き麦藁
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赤い桜んぼか、いちごのシロを飲むのに麦藁を用ひること日本の欧化に従ひ近頃では当り前のことであるが、もとは全くないことで、もしそんなことを東京の真
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