浜へ出て漁師を捕へてしきりに話をしてゐた。その時鎌倉の方から一台の自動車が来て腰越へ向つて去つた。それを見送つて何故か急に淋しい心持がして来た。漁師はそれとも知らずに話を続けてゐる。どうですこの一瞬の捕へ難い光景、それが見事に固定されて人心の糧となつてゐるのである。

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臆病か蛇か鎖か知らねどもまつはる故に涙こぼるる
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 本来の晶子調から離れてゐて少し借物の気味があるが、尚よく近代感覚が消化され、再現されてゐる。何か私にまとひついてゐる、何だか分らない、それは臆病といふ心の病かも知れない、気味のわるい生き物の蛇かも知れない、人を恐ろしい牢獄につなぐ鎖かも知れない。それは分らないが何かがまとひついてゐる、さう思ふと涙がぽろぽろこぼれてくる。

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大町の辻読経をば二階にて聞く鎌倉の夕月夜かな
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 大町の辻読経といふことが別にあるのかも知れないが、大町の方向で、日蓮辻説法の格で高声に御経を読んでゐるものがあつて、自分の借りてゐる二階まで聞こえて来る。鎌倉は爽やかな初夏の夕月夜だ。それだけのことであるが鎌倉らしい気分が夕月の光のやうにさしてゐる。

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我が造る諸善諸悪の源をかへすがへすも健かにせん
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 これも晶子哲学の真髄を示すものであり又自ら策励するものでもある。行為として現はれることなどは抑※[#二の字点、1−2−22]末である。それが善であらうと悪であらうと構はない。それよりそれらの行為の出て来る根本観念だけは何としても健全なものにして置かねばならぬ。私の努力はそのために払はれる。

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海の月前の浜にて人死ぬとなど鎧戸を叩かざりけん
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 朝起きて見ると、前の浜に死人があると罵り合ふ声が聞こえる。空には残月が懸つてゐる。ああこの月は昨夜海の上で見てゐたのだ、前の浜で人が死ぬと一言言つて鎧戸を叩いてさへくれたら、直ぐにも起きて助けにいつたものをと詩人は私かに悔ゆるのである。

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家の内薄暗き日もあてやかに白きめでたき雛の顔かな
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 三月の雛祭のある曇り日のスナツプで、尋常人の気のつかない細かい感触が捕へられてゐる。

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白き門死なん心の進むべき変に備へて固く閉すらん
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 同じく鎌倉での作。海に出る白塗の門が固く閉ざされてゐる。死なうとする心が私にあつてその進行する方向はいふ迄もなくあの門である。そこで変に備へて決して開かないのである。「タンタジイルの死」などの思ひ出される感じである。

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天地の薄墨の色春来れば塵も余さず朱に変りゆく
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 一陽来復の心持を色彩を以て現はせば、こんなものであらう。塵も余さずと云つて万有にしみ通る春の恩沢をあらはし、然らざれば平板に陥る処を脱出させた。

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古の匂ひ未来の香を放つ薬かがせよ我が胸迫る
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 これも前に幾首か例のあつたやうに言葉の音楽であつて大した意味はない。唯朗々と読み上げて一関[#「一関」はママ]の感動を覚えればそれでよいのである。而してこの歌も既にクラシツクになつてゐる。

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霜月や恋の積るになぞらへて衣重ぬる夜となりしかな
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 十一月になつては一枚一枚重ね著をする枚数が増えて行く、とんと年を重ねるにつれて恋の積るのに似てゐると、その頃五十二三でなほ若さの残つてゐた作者はさう感じたのである。序だからいふが、発句では「や、かな」を使はないことになつてゐるさうだ。それには十分な理由がある。然るにこの作者は若い時からお構ひなしに盛に使つてゐる。私はその多くの場合にやはり承服出来ないものがある。例へば 鎌倉や[#「や」に白丸傍点]み仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな[#「かな」に白丸傍点] の如き歌では如何にも耳ざはりである。然るにこの歌の場合に限つて少しも障らないのは如何いふわけであらうか。

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快き秋の日早く来たれかし飽ける男のその証《あかし》見ん
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 早く気持のいい秋が来て欲しい。あの男は十分恋を満喫し、もう沢山だといつて寄りつかなくなつてしまつたが、果してそれが事実なら、秋になつたらその証拠があがることだらうから。私の見解では、満喫したと思つたのは暑さのせいで、私はあの男を満足させた覚えはない。それ故気持のよい秋が来たら、腹が急に減つて満腹感などはつひ忘れて必ずまた来るに違ひない。而して逆に満腹して居なかつた証
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