りけん
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寛先生が渡欧されたのは明治の末年のことで詩人の洋行した最初であり、当時としては相当思ひきつた壮挙であつた。日本の詩を世界的の標準にまで高めたい目的を以て行かれたのであつた。しかしそれでは面白くないので、恋に結び付け、自分達の恋は世間の批難を買つた許りか、天変まで起つて一所に居てはいけないと諭してゐる、そこでやむを得ず泣く泣く海を渡つて祖国を離れ私から遠ざかつたのであると斯う説明したわけであらう。
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大昔夏に雪降る日記など読みて都を楽しめり我
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恋などはとうの昔に卒業し学者として静かに書斎に立籠り古書に親しむ作者の俤が其の儘出てゐる。日記は吾妻鏡などでもあらうか。
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海越えんいざや心にあらぬ日を送らぬ人と我ならんため
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良人の跡を追つて渡欧せんと決心した頃の作で、これが晶子さんの一生を通じて持ち続けて変らなかつた処世哲学である。即ち心にもない日を送らぬことで、これが因習から解放されることにもなるのである。大抵の人は因習の囚となつて心にもない日を送つてあたら一生を無駄に過してしまふのに、独り、我が晶子さんは子の愛をさへ犠牲にして心に叶つた日送りをした。普通の日本婦人の何人分かの仕事を一人で、成し遂げたのはその精力が絶倫であつた許りではない、この心掛けがあつてそれを実行に移しえたからであつた。
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呉竹を南の隅に植ゑし[#「植ゑし」は底本では「植えし」]より片寄る春の夕風となる
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夫人の友人の一人で夫人の真価を最もよく了解する詩王高村光太郎君は白桜集の序で、「人知れぬかくれた著想の微妙」なことを挙げてゐるが、この歌などもその一例であらう。春の夕風が片寄つて吹くなどといふ妙想はいくら竹叢を横にしてでも誰も思ひつけるわざではない。
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同じ世の事とは何の端にさへ思はれ難き日をも見るかな
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良人を渡欧させて一人留守をして見ると世の中は正に一変して、何事につけ同じ世の中とは思はれない様な日送りをすることになつた。今に至つてこんな思ひもしなければならぬのだらうか。
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茅が崎は引潮時に蛙鳴きいかに都の恋しかりけん
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七瀬さんの良人即ち唯一人のお婿さんが茅が崎の別邸で若い身空で亡くなつた時之を悼んだ作であるが、その子を思ふ切々たる哀調は永く読むものの心を打たずには置かないであらう。
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その妻を云ひがひなしと憎みつつ罵りつつも帰りこよかし
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一人留守をすることは最早堪へられない。子女養育の大責任を負ひながらその言ひがひなさは何事だと憎まれても罵られても構はない、それよりも帰つて貰ひたいのです。
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崩れたる牡丹昨日の夕風の如何なりしかは我のみぞ知る
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崩れたる牡丹我のみぞ知ると続くのであらう。昨夕のあの風の恐ろしかつたこと、それはそのために崩れた牡丹の私丈が知つて居ることです。さういふ牡丹の述懐で、その調子に一抹の凄味が感ぜられる。
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十の子と一人の母と類ひなく頼み交はすも君あらぬ為め
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何といふやさしい真情の溢れた歌であらう。私はこの歌を取つて、同じ様な子を持つ或は夫を失ひ、或は留守をする若い母親にすすめて日常口誦させたいと思ふ。彼女等はそれによつてどの位慰められることであらう。
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ゆくりなく流れ会ひたるものながら沙にあらめと勿告藻《なのりそ》と抱く
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これは鎌倉の海岸で作者が見賭した一静物を歌つたものではあるが、実は人生そのものの象徴で、あらゆる夫婦あらゆる恋仲はこのあらめとなのりそとに過ぎないのである。
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人の世の掟の上の善き事もはたそれならぬ善き事もせん
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これは晶子さんの道徳標識ともいふべきで、正にこの通りのことを実行された。世の中でいふ善事は凡て之を行つた。しかし同時に世の中で必ずしもよしとしない善事を躊躇せずに行つた。女性解放の如き、男女共学の如き、敬語廃止の如き、死者尊重をやめその代りに生者尊重を力説する如き、御堂関白礼賛の如きその例は無数にあつて因習に囚はれた世人の大多数の肯ぜざる所を善事と信ずるが故に或は行ひ或は説いたのであつた。
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腰越へ向ふ車を見送りて寂し話を海人の継げども
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昭和四年頃暫く鎌倉姥ヶ谷に行つてゐた時の歌。ある日七里が
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