原に大火があつて全部焼けてしまつたことがあつたが、その時の歌であらう。火事を直接詠ぜず、青柳の枝を表に出して悲惨事は之を人の想像に任せる、悪に堪へぬ作者の手法であるが、印象は相当はつきり出てゐる。

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由紀の殿主基の宮居に夜を籠めて祈り給ふも国民の為め
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 昭和の御時の大嘗会の歌である。作者は色々の場合に歌を作つた。作らせられた場合の方が恐らく多かつたであらうが、さういふ中によい歌はやはり殆どない。しかしこの今上御即位の時のものには相当よいのがある。それは何といつても今上の人並の人主でないことに本づくものであらう。この歌なども真に作者がさう感じて作つて居るので、月並のやうで生命が籠つてゐる。

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何事に思ひ入りたる白露ぞ高き枝よりわななきて散る
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 木の下を歩いてゐると上から朝露が落ちて襟に散りひやりと心を冷した。見上げると枝にはなほ露の玉がたまつてゐて今にも散りさうだ。それは丁度何事かに深く思ひ入つて慄えながら身を投げる形である。さう作者は感じたのであるが、さう云はれればいかにもそんな感じがしさうだ。

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秋風に白く靡けり山国の浅間の王の頂きの髪
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 軽井沢には何度か行かれたが、之は昭和五年頃の作である。浅間の煙が颯爽として秋風に靡く壮大な光景を抒し、道理なれそれは山の王の白髪であつたといふわけで、之亦一種の表現法ではあるが、余り屡※[#二の字点、1−2−22]用ひない方がよいだらう。

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秋の夜の灯影に一人物縫へば小さき虫の心地こそすれ
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 自己の天分を信じて高く自ら評価し寛弘の女房達に比較されて嬉しいとも思はない才女も秋の夜の灯影で一人淋しく縫物をして居ると平生の矜誇などはどこへやらきりぎりすの様な小さい虫になつた感じである。

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暁に馬悲しめり白露の厩の軒に散れるなるべし
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 明方ふと目をさますと馬の嘶くのが聞こえる。その声が哀調を帯びてゐる。それはきつと秋の白露が木の枝から厩の軒に散りかかるのを見て物の哀れを感じたからであらう。ある時は万有の心を以て心とし、ある時はわが心を以て万有の心とする詩人でなくてはたとへ同情はしてもこの高さには至り得ない。これも軽井沢での作。

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鎌の刃の白く光ればきりぎりす茅萱を去りて蓬生に啼く
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 このきりぎりすも昼鳴く虫※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]で、今でも玉川の土堤へ行けばこの光景が見られる。しかし見てもなかなか歌へる光景ではない。歌つても人が出て来て虫が主にならない。特に人を抜いて独り鎌の刃を躍らせて居る所が人の意表に出てそこに新鮮味が生れるのである。

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山の池濁る身ならば濁れかし労ふ如し秋雨の中
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 雲場の池に秋雨が降り込んで濁るに非ず澄むにあらず落ち付きのない池の面をいたづき労ふものの如く見て、濁るならいつそ濁つてしまへば安心が出来るのにと、女らしいデリケエトな感じを出してゐる歌。

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芝居より帰れば君が文著きぬ我が世も楽し斯くの如くば
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 見た所こんな楽しい明るい歌は晶子二万五千首中にも多く類を知らない。しかしほんとうは辛いきびしい人生にも一日位こんな日があつてもよからうといふ意味で思つた程楽しい歌ではないのかも知れない。

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霧積の霧の使と逢ふほどに峠は秋の夕暮となる
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 碓氷の坂を登つてゆくと霧の国霧積山から前触れのやうに霧がやつて来て明るかつた天地もいつしか秋の夕暮の景色になつてしまつた。

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飽くをもて恋の終りと思ひしにこの寂しさも恋の続きぞ
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 私の恋は遂に達せられた、十分に堪能した、それ故そこで恋は終るものと考へてゐたのに、歓喜の後の悲哀らしい今の寂しさ、これも恋の続きで、少しも終つてはゐなかつたのであるといふわけだが、しかし之は言葉の綾であつて本来の目的は私は今寂しいのだと言ひ度いことにある。しかしそれだけでは歌にならないので前の文句を拈出したのである。

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曙をかつて知らざる裏山の雑木林の夕月夜かな
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 軽井沢の奥の三笠山邑の光景で、昼なほ暗い程繁り合つた雑木林の心を曙を一度も知らないといつたので、それによつて影の多い夕月夜の印象がくつきりと浮んで来るのである。

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相あるを天変諭し人さわぎ君は泣く泣く海渡
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