兼ねた蕎麦屋で手打ち蕎麦を食べさせたさうである、先生達はよくそこへ行かれた。一度歌会を開かうといふ話もあつたが当時交通が不便だつたので之は実現されなかつた。その大きな構への家の中を、直ぐこの境内に湧き出た許りの水量の頗る豊富な三鷹川――作者の命名ではないか――が流れてゐる光景である。再び島田屋の蕎麦の食べられる日がいつ廻つて来ることだらう。又同じ時の歌に 紫の幕の草を掛け渡す小家に廻る水車かな といふのもある。斯ういふあか抜けのした写生の歌は誰にもは出来ない。

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母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ
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 女人の母としての一面をその出発点に於て規定するものであるが、これほどの事さへ晶子さん以前には考へる人がなかつたのではなからうか。

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思へらく千戸の封は得ずもあれ梅見ん窗を一つ持たまし
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 作者は私などに比すればその志は極めて大きかつた。千戸の封といふ如き言葉の出て来るのがそれを証明してゐる。私も同じあこがれを持つてゐたので、この歌の気持が実によく分つた。しかし志の小さい私にはこんな歌は出来なかつた。私は作者の晩年、機縁熟して伊東に小菴を結び尚文亭と名づけ、日夕海を見て暮すことが出来るやうになつた。そこで如何かして作者をそこへ移したかつたのであるが、既にして遅過ぎた、又遠過ぎることになつてしまつた。移動は上野原が最大限であつた。その事を私は今でも残念に思つてゐる。

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雲渡る多くの人に覗かれて早書をする文の如くに
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 斯ういふ早書きの体験は誰にもあらう、又なくとも容易に想像出来る。けれどもそれを歌材とすること更にそれを雲の運動と結び付けることなど決して出来ることではない。千態万状測り知られぬ雲の運動もその一つの相がこれで正確に固定されたわけである。

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事もなく鎌倉を経て逗子に著き斯くぞつぶやく「昔は昔」
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 暫く別居して鎌倉に住んだことがあつた。あの時はひどかつた。今日は事もなく鎌倉を通り過ぎて逗子に著いた。それが少し変にも思はれる。そこで昔は昔、今は今別にをかしくはないのだと自分に云つてきかせたといふのであらうか。

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あながちに忍びて書きし跡見れば我が文ながら涙こぼるゝ
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 親のもとに居た頃の昔の手紙が、探し物をしてゐると思ひがけなく出て来た。試みに読んで見ると無理をして人にかくれて書いた様子がはつきり出てゐて、その頃のことが思ひ出され涙がぽろぽろ落ちて来た。

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風起り藤紫の波動く春の初めの片山津かな
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 昭和六年一月、北陸吟行の途上、片山津温泉に泊した時の作。私はその地を知らないので何とも云へないが、いかにも春の初めらしい気持のよい出来なので幾度か朗誦してあきることがない。

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めでたきもいみじきことも知りながら君とあらんと思ふ欲勝つ
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 斯うすれば富貴も得られ幸福も得られるといふ途を私はよく知つてゐる。それにも拘らず、あなたと一しよに居たいと思ふ欲の方が勝つて貧しい暮しを続けてゆくのです。大欲は無欲に似たりでせうか。

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入海を囲む岬と島島が一つより無き櫓の音を聞く
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 能登の和倉温泉での作。この歌の中には実際櫓の音がしてゐるやうだ。印象もこの位はつきり出ると神に近い。この時の作も一つ、 海見れば淋し出島の和倉にて北陸道の尽くるならねど 寒い一月の北の入海の心持がよく出て居る歌である。

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腹立ちて炭撤き散らす三つの子を為すに任せて鶯を聞く
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 鴎外先生は決して子女を叱らなかつたさうであるが、晶子さんもまたさうであつたらしい。その面目がこの歌に躍如としてあらはれてゐる。鶯を聞くといふからもうこの頃は中六番町に移られてゐたことであらう。

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わが踏みて落葉鳴るなり恋人の聞く音ならばをかしからまし
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 昭和四年頃の作で作者五十二歳、血のにじむ様な猛修行をした後に恋を卒業した作者が昔を忘れず今の恋人に聞かせたい様な趣きの見える面白い歌である。さうして若い恋人が聞いたら、この落葉を踏む音が天にも昇るやうに響くかも知れないと思ふのである。

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吉原の火事の明りを人あまた見る夜の町の青柳の枝
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 余り繁華な町とは思はれないが青柳の枝は柳の並木らしいので六番町ではないかも知れない。その頃吉
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