に来る。 荻の葉に吹く秋風を忘れつつ恋しき人の来るかとぞ思ふ 以上二首は積極的であるが、以下は凡て消極的になる。[#底本では4字分の空白]源道濟のは 思ひかね[#「思ひかね」は底本では「思ひがね」]別れし野辺を来て見れば浅茅が原に秋風ぞ吹く 西行からは典型性を帯びて来る。 荻の葉を吹き棄てて行く風の音に心乱るゝ秋の夕暮 後鳥羽院のは一段とすぐれてゐる。 あはれ昔いかなる野辺の草葉よりかかる秋風吹きはじめけん 家隆にも一首あり 浅茅原秋風吹きぬあはれまたいかに心のあらんとすらん 伏見院のは 我も悲し草木も心痛むらし秋風触れて露下る頃 永福門院のは 夕暮の庭すさまじき秋風に桐の葉落ちてむら雨ぞ降る で之は少し趣きが違ひ風も荒く村雨も降る場合だが、その他は大抵似よつた心持が歌はれて居て日本の秋風がどんなものであるかは大体推定される。以上あげたのは秋風中の秀歌で、あとの何千首かは凡て風の様に吹かせて置けばよいので問題とするに足りない。さて之等に比較する時いかにこの歌が特殊面をもつた近代的のものであるかが分るであらう。この場合の近代性は分化を意味するのである。

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桃浦に古船待てり乗るべきかいかに鹿島の事触もなし
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 いかにで切る。鹿島の事触れとは、正月の行事の一つ、鹿島大明神の神話と称し神主姿の男が襟に御幣をさし銅拍子を鳴らして年の豊凶、吉凶を触れ歩いたものださうである。この歌は昭和六年二月筑波山へ登り霞が浦を渡つて鹿島へ参詣された時の歌。「桃浦」は土浦の前の入江の名であらう。さて船へ乗らうとするとその待つて居る汽船がいかにも古いぼろ船でとても遥か彼方の潮来までは行けさうもなく途中でこはれてしまひさうに見える。さあ乗るべきか止めるべきか、せめてこれから詣らうとする鹿島の神の事触れでもあれば心が極るのに、その前触れもなく困つてしまふといふのである。鹿島の事触れなどいふ古い行事を知つて居てその場所に生かして使はれたこと、これなども他人の企て及ばぬ所である。

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生れ来て一万日の日を見つつなほ自らを頼みかねつも
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「一万日[#「一万日」は底本では「一万日は」]」は三十年弱に当るが、三十年と云つたのではこの場合歌にならない。観音様の縁日に四万八千日といふのがあつて珍しく日を以て年を数へてゐるがこんな例は多くはない。多くない例を用ひるから歌が成立するので、この場合は万といふ大きな数が歌を動かす動力となつてゐるわけである。

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衰へし身とは夢にも思はれず苦しき毒を服しけるかな
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 もし少しでも自らの衰へを感じてゐたなら、こんな苦しい毒は呑むのでなかつた。自分の既に若くないことに気づかず、衰へたなどとは夢にも思つてゐなかつたことの罪である。毒は恋で、中年女の悩みを歌つたものであらう。

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不可思議は天に二日のあるよりも我が体に鳴る三つの心臓
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 先に七瀬八峰の二女を双胎として生んだ体験から今度もきつとさうだと思ひ込まれて作られた歌である。この時は余程心を悩まされたものと見え この度は命危ふし母を焼く迦具土二人我が胎に居る とも作られてゐる。

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雑草は千万行の文章も人に読まれずうら枯れにけり
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 これは独り雑草の運命である許りでなく、数十億の人類の運命であり、又一切万有の辿る途でもある。唯誰も思ひ到らないだけだ。作者はよくこの事に気づいた。作者の如きは雑草の書く千万行の文章の内の数十行数百行は読み得たものであらう。

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悪竜となりて苦しみ猪となりて啼かずば人の生み難きかな
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 産科の近江湖雄三博士を感憤せしめた歌で、同博士が独逸から無痛安産法を携へて帰朝されたのもこれに本づくのである。夫人も一囘体験されて好結果を得られた。しかし時代が早かつたと見えこの方法はいつの間にか我が国からその影を絶つたが、この頃の米国辺の空気から察すると大に将来性がありさうで、しまひにはお産の苦痛も昔語りになる時がありさうにも見える。さういふ苦しいことも晶子さん以前には誰も本気に歌はうとしなかつたやうで、その事が反つて驚くべきことなのではないか。

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さらさらと土間の中にも三鷹川浅く流るる島田屋の秋
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 武蔵野の秋を探つてよく三鷹の深大寺に行かれたことがある。まだバスなどのない時分で、境から歩いて行つたのである。深大寺は余程古い寺でもあり、その環境もよかつた。当時は人も行かず、ゆつくり秋の心を楽しませることが出来た。島田屋はその門前にある農家の
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