らむづかるのでもある。
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我は泣くこれをば恋の黄昏の景色と見做す人もあらまし
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今私は泣いてゐる。これを見る人は私の恋もいよいよ終りに近く正に黄昏の景色だと思ふ人もあらう、さうでもないのだが。斯んな風に直き泣く様ではさうなのかも知れない。
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後ろより危しと云ふ老の我れ走らんとするいと若き我
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青春と老熟の入り交つて平衡状態を保つ三十過ぎの心の在り方は恐らくこんなものであらうかなれど、何しろ三十年も前の事だから私自身は忘れてしまつて何とも云へない。
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三角帆墨の気《け》多き海に居て片割月にならんとすらん
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武蔵の金沢に遊んだ時、夕暮に小高い丘に登つて海を見た景色、私も一しよに見たのでよく知つてゐる。少し暗くなつた海面に小ヨツトの三角帆がたつた。一つ浮いてゐた。私もそれを詠んだ筈だ。夫人は何と詠むだらうと興味を以て臨んだが遂にこの歌になつた。その第一印象の的確にして過らざるに感心したことがあるが、今取り出して見ても浮き出すやうに鮮やかな印象を受け取る。
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髪未だ黄ばまず[#「黄ばまず」は底本では「黄ばます」]心火の如し悲みて聴く喜びて観る
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三十を越えたといふ自覚はあつても髪はまだ黄色にはなつてゐない、火の様な心はその目の様に燃えてゐる。人の話をきくにも悲しい話は涙を流して聴き、面白い芝居は心を躍らして見ることが出来る。私はまだ若いのだ。
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凋落は我が身の上になりぬると云ひ過ぎすなり思はざること
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今思ひ出して見ると何と云ひ過ぎの多かつたことよ。私の如きもいひ過ぎ許りして居た様だ。夫人も相当云ひ過ぎがあつた。それに気がついた歌である、いよいよ私の凋落する番が来たなど思ひもしないことをつひ云つてしまつた。しかし潜在意識にそんなことがあつて出て来たのかも知れない。さうとすればうそでもないのだ、言ひ過ぎだとするのは自ら欺くものである。何だかそんな裏の意味もありさうだ。
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紅の海髪《おごのり》の房するすると指を滑りぬ春の夜の月
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すこし霞んだ春の夜の月の昇つてくるのを見るとあのぬらぬらする紅い海髪の房がするすると指の間をすり抜ける感触だ。暖かい風の吹いて居る静かな海岸の岩の間に顔を出す人魚、近代人の感触は例へば斯ういふ媒介者があつて感ぜられるとも云へる。
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何時となく思ひ上がれる我ならん君も仇も憎からぬかな
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人間も漸く成熟すると斯ういふ境地に立つ、即ち恩讐一等の境地である。それをさうといはずに殊更に卑下して思ひ上がれるといつたのであらう。
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恋もせじ人の恨みも負はじなど唯事として思ひし昔
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私は少女の頃から色々の古典も新作も読んで恋の葛藤の悲しさ痛ましさ浅ましさ恐ろしさを十分知るにつけ、私は恋などはしない、人の恨みも受けまいと簡単に考へてゐたのであつた。それだのに如何だらう。人の恨みを受けるやうな人並はづれた危い恋をしてしまつた、恋を知らない少女心はそんなものでしかない。
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島の雨紅襷して樫立の若衆が出でて来る時も降る
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八丈島へ遊びに行つた時、偶※[#二の字点、1−2−22]大賀郷の広場で樫立部落の若衆によつて八丈音頭の踊られるのに出会つた。その時は夏の暑い日盛りであつたが、一年二百五十日は降るといふ島の雨が折しも夕立となつて降り出した。それがをかしかつたのである。
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仄白き靄の中なる苜蓿《うまごやし》人踏む頃の明方の夢
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私は今明方の夢を見てゐる。今頃は仄白い大方脚気を直したい人達が靄を分けつつ柔い苜蓿の上をはだしで踏んでゐる頃であらう、それもよし、わが快い夢もよい。
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芝山を桐ある方へ下りて行く女犬ころ初夏の風
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山本さんの野方の九如園で歌会が開かれた事がある。五月牡丹未だ散らず、空には桐の花の咲く日であつた。その匂ひをしたつて芝山を婦人客と犬と微風とが降りてゆくのである。
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漸くに思ひ当れる事ありや斯く物を問ふ秋の夕風
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昔から秋風を歌つた歌は大変な数に達するだらうが、さて余りよい歌はない。最初のものは額田の女王の 君待つと吾が恋ひをれば吾が宿の簾動かし秋の風吹く で之はよろしい。万葉はこれ一首。次は一足飛びに源重光
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