られたのである。

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自らを五月の山の精としも思ふ卯つ木は思はせておけ
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 毒うつぎともいはれる卯つ木が紅白とりどりに初夏の山に咲き誇る勢ひは大したもので、藤にしろ躑躅にしろ蹴押され気味である。而して我こそ五月の山の精であると自負して居るらしいがそれもよからう、勝手に思はせて置くがよい。大してえらくもない連中の威張つて居る世相が同時に象徴されても居るやうだ。

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天地のものの紛れに生れにしかたは娘の人恨む歌
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 人並はづれた才分をたまたま持たされて生れて来た許りに、人並はづれた恋もし人を恨む歌を読むことにもなつたといふ述懐で、かたは娘は反語であらう。

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蜂蜜の青める玻璃の器より初秋来りきりぎりす啼く
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 所謂近代感覚による象徴詩で、ある時期に作者も試みたがその数は多くない。今後短歌もこの方向に進む余地が大にありさうだ。この歌のきりぎりすは蟋蟀の古語でなく、今の青い大きいきりぎりすとすべきでそれでなくては近代感と合はない。

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高々と山の続くはめでたけれ海さばかりに波立つべしや
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 丹後与謝の大江山辺の景色。ここからは下に橋立浜の絶景も見える。両者を見較べて山の高きを称へ同時に海は平らな海としてその美を存する趣きである。

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都をば泥海となしわが子等に気管支炎を送る秋雨
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 今日の東京も滅茶滅茶にこはれてしまつたが、明治末年の雨の日の東京の道路と来たらお話にもなにもあつたものではなかつた。外国の記者が之を評して潜航艇に乗つて黄海を行くが如しと言つた。靴など半分位もぐつてしまつたからである。この歌を読むと当時が思ひ出され歴史的意義も少くない。

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落葉よりいささか起る夕風の誘ふ涙は人見ずもがな
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 銀杏や欅の落葉の美しく地に散り敷いた処へ夕風が起つてさつと舞ひ上つた。それを見て何の訳もなく涙が出て来た。悲しんででも居る様に人は思ふだらうから見られないやうにしよう。これも悲しくない涙の例。

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嬉しさは君に覚えぬ悲しさは昔の昔誰やらに得し
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 誰やらとは誰の事だらう。嬉しさの与へ手はその昔、悲しさの与へ手ではなかつたか。その覚えなしとは云はさぬといふほどの寸法であらう。

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春霞何よりなるぞ桃桜瀬戸の万戸の陶器の窯
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 昭和四年四月尾張の瀬戸に遊んだ時の作。春霞とは一体何か。私は知つてゐる。それは桃の花から立ち登るガス、桜の花から立ち昇るガス、葉もあらうかと思はれる焼物窯から立ち昇るガス、さういふものの合成したものがこの町の上に棚曳いてゐる春霞である。

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相寄りてものの哀れを語りつと仄かに覚ゆそのかみのこと
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 そもそもの逢ひ初めはどんな風であつたか。私はかすかに思ひ出すが、近く寄つて物の哀れを語り合つただけである。それが如何であらう、けふのこの二人の中は。

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光悦の喫茶の則に従ひて散る桜とも思ひけるかな
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 鷹が峰の光悦家を尋ねた折、折から満開の桜の散るのを見て光悦の御茶の規則に従つて散るものと思つたのである。これが晶子さんの見方で他人の決して見ることの出来ない見方である。

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三月見ぬ恋しき人と寝ねながら我が云ふことは作りごとめく
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 前に 君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ思はぬことも云ふあまつさへ といふのを説いたが、それは若い恋の場合であつた。今度のこの歌は夫婦生活長い後のものであるが、会話に平板を破らうと労力してゐる跡が見え興味が深い。

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青春の鬼に再び守らるる禁獄の身となるよしもがな
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 若き日の夢を再び追ひたい心持ではあるが、鬼といひ禁獄といふ恐ろしい言葉の使つてあるのは意味がある。年をとつて酸いも甘いも噛み分けた今は大した欲望とてもない謂はば自由の身である。それから見ると強烈な内の促しの支配する若い頃は、青春鬼とでもいふ獄卒の見張りをする獄中にゐるに等しいが、それがも一度さういふ目にあつて見たいのである。

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男をば日輪の炉に灸るやと一時《ひととき》磯に待てばむづかる
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 鎌倉の様な海浜の夏の逢引で、少し待たされた男の言ひ分で面白い。しかし日本の海の夏の沙はまさにこの通りで誇張でも何でもない。であるか
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